THROUGH MY FINDER -7ページ目

夏の初めの頃

ハッピーライフ

Melancholy Of A Paperboy

彼は新聞配達員である、朝刊の配達のみ担当している。

昼間は学生だ、心理学を勉強している、フロイトやらユングやら熱心に勉強していた。

彼は若年性脱毛症だ。月を追うごとに自分の額が入り江のように浸食されている。
彼自身、いつかは無くなるものが、ある一般的な基準よりも早くなくなるだけだと考え
はじめは大して気にもしていない、まわりからも馬鹿にされたりするのも大
して気にも留めていなかった。
「てめぇらの毛だって十年、二十年もすれば、そこにふさってるかどうかわからないぜ。」
と内心思っていた。彼は図太い精神の持ち主だ。

彼の憂鬱とは若年性脱毛症とは全く関係がない。この世の中には人知を越えた関連性という
ものがあるとすれば、全く関係がないと言い切る事はできないかもしれない。
とはいえ、直接的には全く関係がない。

彼の憂鬱は、糸だった。蜘蛛の糸だ、芥川の小説の題名にもある「蜘蛛の糸」だ。
揖保の糸ではない。

たいていの人はご存知ないだろうが、世の中にはたくさんの蜘蛛がいる。至る所にいる。
スパイダーマンがいるかどうかは知らない。きっといないだろう。とにかく蜘蛛はいる。
蜘蛛は巣を作る、生きる為だ。巣を罠にして虫を食らう。その為に巣を作る。いたると
ころに蜘蛛はいるので、至る所に糸が張られる。想像してほしい、想像の目を接写レンズ
にしてほしい。蜘蛛口当たりから、細い糸がシューっと吐き出されるところを。
それはなかなか爽快なものである。人の口からそんなものが吐き出されるなら、そんなに
面白い事はない。楽しすぎて、毎日がパーティータイムだ。蜘蛛の糸は風になびく、そして
マンションの廊下にある、電気メーターから手すりまでを物理的に繋ぐ。そのようにして
町のいたるところに実はそのような罠があふれていることはあまり知れられてはいない。

なぜだろうか?その答えこそ、彼の憂鬱の根源たるものに等しい。
蜘蛛の巣作りは世間一般の人が寝静まる夜未明より開始される、それは蜘蛛の巣協定によ
って取り決めがなされている。新聞配達員は未明後に動き出す。そう、町の至るとこに
仕掛けられた罠にまんまと引っかかり続けるのは何を隠そう全国の新聞配達員なのである。

彼は若年性脱毛症であり、繊毛恐怖症でもあった、蜘蛛の糸はもちろんそこから連想され
る蜘蛛の表面にふさふさと生えているあの繊毛が恐ろしくてたまらない。彼は蜘蛛の糸に
毎朝悩まされびくびくしながら新聞を配達していたのだ。

では何故彼は新聞配達をやめられないのか。彼は新聞の印刷の臭いが変態的に好きだった。
虎穴はいらずんば、虎子を得ず。彼は蜘蛛の糸の憂鬱に打ち勝って、新聞の印刷の臭い
を手に入れた。彼を配達中にいやすものは新聞のインクの臭いに他ならない。配達が終了
すると、手についた臭いをかぐ。愛おしい臭い。そして悦に入る。

彼の憂鬱と悦は毎朝繰り返される。僕たちを蜘蛛の巣の罠から人知れず救っているのは
彼を含めた全国の新聞配達員なのである。感謝。