薀蓄を語る、というより、薀蓄を垂れ流して、
さも何か意味のありそうな装いを振舞うだけの、
浅い底がまるみえで、
その薀蓄された知識の中から、
己から新しいものを生み出すことが皆無で、
いったい、何がやりたいのか・・・・。
つまりそれは、なんにも薀蓄されていないと同じことだ。
「薀蓄」が名詞だろうと動詞だろうと、どっちゃでもいいわい!
創造の核心に何も意志を持っていないために、
薄っぺらい言葉を並べているだけの設計図しかかけないのだ。
創造表現と薀蓄の垂れ流しを混同し、
芸術と哲学を崇拝しているふりをして、
気取っているだけなのだ。
人はそれを「浅学」あるいは「無知」という。






