「文学的修辞」 | 安濃爾鱒のノート

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これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 百田尚樹氏著の「日本国紀」という本に関連する話。

 

 この「日本国紀」という本、先日まで、正確には 実物が世に出る前までは、「馬鹿発見器」としての大活躍でネット上で高く称賛されていたものだった。

 

(成果を挙げれば、例えば↓など)

 

 

 しかし、実際に世に出てみると、次々とその間違いを指摘する声が上がっている。

 

 その、個々の間違いの指摘については、きっちりしっかり述べたものがネット上に上がっているので ご興味がある方は、そちらを参考にしてもらいたいのだが、私が 面白いな、と思ったのは、それに対する百田氏の反応である。

 

 百田氏は、間違いを指摘されると

  「文学的修辞が読み取れない馬鹿

と tweet しているのである。

 

 

 この御仁、「文学的修辞」と言えば、自己矛盾していること・非論理的であることが許されると思っているんだから、文学者は皆自己矛盾が平気で非論理的だと思っているようだ。

 

 これで思い出すが、自分自身の恥ずかしい過去の行状。

 40年ほど前、理学部数学科の出来の悪い学生であった私達は、こんな風に「文学的修辞」という言葉を使っていたものだった。論理的に破綻していることを強情に言い張り続ける、という意味で。

 この前提にあるのは、

   《 文学者ってのは 非論理的、反論理的 》

だと思っていたという愚かさである。

 

 今はどうか知らないが、40年ほど前の、数学科の学生の中の出来の悪い連中(私自身を含む)というのは、理系の学生の悪い処を煮詰めたようなところがあって、上に述べたような(:再度書き写すのも恥ずかしいこと愚かな考え)を持っていたのである。

 

 それにしても、現代の現役の売れっ子作家である百田尚樹氏が、こんな馬鹿な若造と同じ愚かさを持っているというのは、驚きである。

 

参考:

「話題沸騰の書、百田尚樹著『日本国紀』を100倍楽しみ、有意義に活用する方法」

「『日本国紀』正誤表/および参考文献」

 

 

 

#私は、朝日新聞型の「セーギの人」も、愛国ファンタジーに溺れる人も嫌いだ

  ーーーーー杉浦 憲二 (Sugíura Kenji) ーー sui generis ーーーーー