学問の自由を掲げておけば我儘が通用すると思っているビョーキの連中 | 安濃爾鱒のノート

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なんというか、私の「ノート」です。

 「平和運動」とか「人権擁護」とか「報道の自由」とかいう看板を掲げておけば何でも遣りたい放題だと思い込み、《愚かな大衆ごときが 我々『知的エリート』サマを批判するなんてケシカラン 》などという 恐ろしく独善で傲慢な考えががまかり通ると思っている殆どビョーキの連中が居る。

 

 理想論を捻じ曲げ悪用するカルトな連中である。「理想論原理主義」の暴走であるかのように見えるが、その実態は、社会のルールに従わずに我儘勝手な要求を押し通したくて、屁理屈を捏ねているだけだったり、無能で怠惰な自分の本当の自分の姿を直視せず「オレサマはエライのだ」という幻想に逃避するために、理想論の言葉を借用した奇妙な「理論」を展開しているような連中なのである。

 

 主に、日米欧のような民主主義が確立している先進国社会で、かなり前から見られる「風土病」のごときビョーキである。

 

 以前は、"silent majority" たちは、こういうビョーキの連中について、オカシイとは思いつつも、これもデモクラシーを維持するためのコストの一種だと諦観していいたのではないだろうか。

 

 しかし、最近になって、この連中の暴走に対し、(嘗ては "silent majority" と呼ばれていた)majority が 最早 silent を保って黙って耐えることを止めて、これらのビョーキの連中の退治に動き出しているという流れが 日米欧でほぼ同時に共通してみられるようになってきている。

 

 その結果、このビョーキの連中の勢力は長期低落傾向にあるのだが、その一方で、この { 「平和運動」とか「人権擁護」とか「報道の自由」とかいう看板を掲げておけば遣りたい放題がまかり通ると思っている独善傲慢で我儘な連中 } のグループに、最近になって、参入しようとしている連中が居る。つまり、

  「学問の自由」という看板を掲げておけば

  遣りたい放題がまかり通ると思っている

  独善傲慢で我儘なビョーキの連中

である。

 

 学習能力のない連中だ。

 

 例えば、既存の、「人権擁護運動家」(自称)の中の、「死刑反対論者」派閥の連中は、今までの彼らのやり方では一般市民の気持ちを逆なでして支持を失うばかりだということを理解し、新しい戦略を模索し始めているように見受けられる。

 私は、この「人権擁護運動家」(自称)「死刑反対論者」たちのことをどうしようもない大馬鹿野郎だと思っているが、それでも彼らは、幾分の現実認識能力があるようだ。

 

 それに引き換え、アカデミズムという看板を掲げて傲慢独善な態度で利権を守ろうとしている連中は、仮にも「学者」「研究者」を称している割には、「死刑反対論者」系の連中よりもバカなんじゃないかと思う。

 

   ーーーーー杉浦 憲二 (Sugíura Kenji) ーー sui generis ーーーーー