木津→平重衡→般若寺→真言律宗・叡尊 | 安濃爾鱒のノート

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これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 木津(きづ)、というところは、関西人には結構有名なところであろう。
 「奈良のちょっと北、奈良と京都の間」、関西人の多くは、そんな認識で、なんとなく知っているのではないか。もうちょっと詳しい人なら、奈良のすぐ近くなのに京都府で、この木津の出身の横山由依さん(@AKB48)が「京都出身です」と言う度に 関西人から「京都ちゃうやん、殆ど奈良やん」とツッコミを入れられる、という、木津とはそういうところである。今では「木津川市」となっているが、多くの関西人は、未だに、昔の「京都府相楽郡木津町」の省略形としての「木津」(きづ)の方の名称で呼んでいる。

 

木津地図

 

 今年の春(2016年4月)に他界した私の父は、大阪市内の八百屋の倅であったが、父の母 (:私の祖母) の里が この木津で、子供の頃 頻繁に行ったもので 特に夏休みなどは長期滞在した、というような話を生前の父はよくしていた。そういう地であるので、一度 自分の目でしっかり見てみたくなり、先日 ちょっと行ってきた。
 で、この木津に今でも住んでいる、遠縁の親戚の家を突然訪ねたり、墓参りなどをしたりしているうちに、この地:木津が、平重衡の終焉の地であることに気が付いた。

 

平重衡

     平重衡 たいら の しげひら


 平重衡:たいら の しげひら
      平安時代末期の平家の武将・公卿、平清盛の五男、三位中将

平清盛家系

 

 私は、かねてより、(南都焼討の)平重衡(比叡山延暦寺焼討の)足利義教と織田信長には、全ての日本人が感謝しなければならない、と考えている。
 日本人にとって、宗教とは、tranquilizer のような効能を持つ intangible placebo として利用するものであるが、世界の多くの国の人たち、特に 『アブラハムの3宗教』 の信者たちなどは、《 宗教を利用する 》 ということが出来ず、逆に宗教に全人生を支配されている、いわば「宗教依存症」「宗教中毒」の状態にある。欧州の灰汁を煮詰めたような南米に居たことがある私に言わせれば、連中のこの「宗教依存症」というやつは、まことにたちの悪い病気である。日本人は、僅かの例外があるものの、概ね、この病気を免れている。この差が出た原因の中の主要なものが、平重衡南都焼討、足利義教と織田信長の比叡山延暦寺焼討 だと思っているのである。
 そこで、木津を訪れたのも何かの縁と考え、この平重衡の終焉の地であり、平重衡の供養塔が在るという、木津川市内の安福寺を訪ねてきた。

 安福寺(あんぷくじ):京都府木津川市木津宮ノ裏274 (→ 木津川市観光ガイド)

 

 因みに、平重衡は、この木津にて斬首される前に 法然上人と面会し 受戒している、という。うちは 浄土宗なので、これは、なにか ちょっと 嬉しい。

 平重衡は、木津川畔にて斬首された後、奈良の都(当時)の北東の角の 奈良坂にある般若寺門前で梟首(きょうしゅ)された、という。南都焼討の際の主戦場の一つで、平重衡の軍勢に完全に焼かれた大寺院の一つである般若寺である。
 それなら、この般若寺にも近日中に行ってみたい、と思い、その準備として、この般若寺についてちょっと調べてみたら、面白いことが判った。

 

般若寺般若寺地図

 

 

 般若寺(はんにゃじ):奈良県奈良市般若寺町221 (→ 般若寺公式サイト)

 般若寺は、創建事情や時期についてはよく判らず、南都焼討の後、暫くは事実上の廃寺となっていたが、鎌倉時代に入って再興が進められたという。その再興の立役者の一人が、叡尊上人という方で、だから、それ以降、この般若寺の宗派は真言律宗となっている。
 「真言律宗」というのは、ゆかりの寺が、関西、特に奈良の辺りに集中していて、関東には僅かしかないので、関東の人には馴染みのないものかもしれないが、ちょっと調べてみると、なかなかに面白い。
 真言律宗(しんごんりっしゅう)とは、南都六宗の1つで、仏教者としての正しい「戒」に拘り、律宗精神の再興を目指しており、西大寺を本山とし、「叡尊上人を中興の祖とする」となっているが、実質、叡尊ありき、の宗派である。

 叡尊(えいそん・えいぞん) 上人は、当時の荒廃した既存仏教を批判し、真の仏教者としての出家戒の授戒を本来の姿のものに戻そうとし、自らは殺生禁断などの厳しい戒律を課しつつ、宇治橋の修繕などの公共事業を行い、また、貧者・賤民・被差別民・ハンセン氏病者の救済・支援などの福祉事業を行い、賤民・被差別民・ハンセン氏病者から後嵯峨上皇・亀山上皇・後深草上皇に至るまで貴賎を問わず帰依を受けた、という、なかなかにエライ方だったようである。
 

叡尊

    叡尊上人


 また、叡尊上人のお弟子さんの忍性上人も、やはり貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力、師以上に尽力したことで知られる方で、更には、この忍性上人は、私にとっての「地元の神さん」である多田神社の別当に就任し(1275年) 復興に努めるということもなさっており、その面でも私は尊敬し感謝しなければならない方である。

 うちの宗派は浄土宗で、この浄土宗というのは、徳川家の宗派であったので、江戸時代以降は、幕府の庇護を受け、そういう権力の庇護の下、地味によいことをやってきたようで、例えば、各地にある「投げ込み寺」と呼ばれる、遊女や行倒れの旅人などを弔ったのは、その多くが浄土宗の寺であった。但し、それは江戸時代の話であり、それ以前となると、この叡尊の真言律宗が、同様の活動をしていた団体であったようだ。その一方で、慈善事業を行う為の資金を得るため、「権力と癒着した」という批判がなされているというところもある。(例えば、日蓮から「律国賊」と批判された)
  なかなか興味深い集団である。

 また、真言律宗 というものを調べていくうちに、木津の市街地の近くの山深いところに、真言律宗の古刹が二つもあることを知った。岩船寺浄瑠璃寺である。

 

浄瑠璃寺岩船寺

 

 因みに、この岩船寺と浄瑠璃寺も、京都府木津川市内の加茂地区に在るのにもかかわらず、奈良県庁が管理する 奈良の観光地を案内するサイトに載っている。

 こちらも、近日中に行ってみたい、と考えている。
 こんな山深い古刹にまで、例の迷惑な隣国からの観光客が押し寄せて来ていないことを望む。


 私の家では、昔は、正月の御雑煮の餅は、きな粉に付けて食べる習慣があった。最近になって、これが奈良地方の習慣であることを知った。(ありがとう関西テレビ) この習慣を我が家に持ち込んだのは、木津出身の祖母(:父の母)なのか?それとも奈良県添上郡奈良町(:今の奈良市ならまち)出身の曾祖母(:父の父の母)なのか?何れにしても、私は、どうも、この地方のことが気になる。


 ---(9月14日追記)---

 本日、般若寺にお参りしてきた。
 般若寺の公式サイトにも、Wikipedia の般若寺に関するページにも、平重衡に関連するものの存在は一切載っていないのだが、行ってみれば、平重衡の供養塔はちゃんとあった。木津の安福寺の供養塔と比べれば質素であるが、「敵」の供養であることを考えれば、随分丁重に扱われている感じがした。更に言えば、そこに書かれていた説明板の文章は、フェアなものであった。もしかしたら、「フェア以上」というべきなのかもしれない。というのは、「南都焼討」に関する説明が、通常は、《 平重衡の軍勢が、奈良の多くの有力寺院に放火し、その為、奈良の街は大火となった。(但し、放火ではなく、火の不始末による事故であったという説もある) 》 というような感じのものが多いのに対し、この般若寺の中にあった説明文では 《 戦闘は決着が付かないうちに日没を迎え、重衡の軍勢は、明かりとして松明を灯したが、それが折からの北風の強風に煽られ 火事となってしまった 》 となっていた。世間では主流となっている説明である意図的放火説には触れていないのである。入口で呉れたパンフレットでも「治承四年 平家の南都攻めにあい伽藍は灰燼(かいじん)に帰した」となっている。「南都焼討」という言葉を不自然に避けている感じがする。これは、真言律宗の教えによるものなのであろうか?叡尊上人を激しく攻撃した日蓮を師とする某新興宗教集団が、しきりと「仏罰が下るぞ」という台詞を使う態度とは著しい違いが見られて、ちょっと、面白い。 
 尚、入場料(と呼んで良いのか?)として、\500円 必要であった。


 ---(9月23日追記)---

 昨日、伏見の「日野」の、平重衡の墓にお参りしてきた。
場所は、現在の住所表記で正確に書くと、京都市伏見区醍醐外山街道町の、京都市辰巳市営住宅5号棟の東隣の公園、である。住宅街の中のちょっとした公園、にみえるところが、平重衡の墓になっている。これは、Yahoo map にも Google map にも載っていないのだが、幾つかの個人ブログにて取り上げられている。それを頼りにしてここにたどり着くことが出来たのだが、実は 途中 道端で 準公的な組織が掲げている簡易地図を何度か見つけ、それを頼りにして捜してみたら、たどり着くことが出来ず、やはり当初通り某個人ブログの情報を信じて捜し直したら、たどり着くことが出来た。もしかして、平重衡の墓は、今の地に安定する前に何度か引っ越しをさせられたのだろうか?
 ブログなどを読むと、「住宅街の中の公園の中に、平重衡の墓がポツンとある」と言う風な描写になっていたりするが、今は、三方を公道(残り一辺は団地)に囲まれた公園の一画全体が、「貴人のお墓を核とした史跡公園」というような感じに綺麗に整備されている。ここ数日は、荒れた天候の日が続いているのに、あまり荒れているように見えなかったので、マメに掃除している方がおられるのだろう。

 

平重衡の墓

 

 この地は、京都と奈良を結ぶ街道(「奈良街道」「大和街道」)の途中にある伏見から大津方面へ分かれする枝街道(「大津街道」)から少し入ったところで、平重衡のお体は、この街道を 最低 「2度」通っている。一度目は、鎌倉幕府から奈良の有力寺院集団に引き渡される為に、鎌倉幕府の役人に護送されて、ここを通過している。鎌倉を発ったのが1185年6月9日、東大寺の使者に引き渡されるのが同22日なので、ここ日野を通ったのは1185年6月20日辺りであろう。ここで、平重衡の妻の藤原 輔子(ふじわら の すけこ) 従三位典侍・大納言佐局(だいなごんのすけつぼね)と再会し、今生の別れの言葉を交わしている。藤原輔子は、夫 重衡が一之谷で源氏方に捉えられた後も平家一門に残り、壇ノ浦の戦いにて平家の軍勢の敗北を見て安徳天皇や他の女たちと共に入水するが源氏方の兵に助け上げられ捕虜となり、その後はこの日野に住む姉の藤原邦子の居所に隠棲していた。重衡を護送する鎌倉の役人がこの街道を選んだのは偶然だったのか?それとも「計らい」だったのか?公的な記録には無いので、勝手に想像するしかない。この道中が単に重衡を奈良寺院団に引き渡す為だけのものではなく、平家の元要人を晒し者にすることで源氏の天下を世間に知らしめるためのものでもあったとしたら、遠廻りをしてでも京の都を通過するべきではなかったのか?
 平重衡は、この後、木津まで連れていかれ、木津川畔にて斬首され、奈良の般若寺門前で暫くの間 梟首された後、妻の輔子が遺体を譲り受けて、この地(伏見の日野)に持ち帰り、墓を建てた、という。これが「2度目」。この後、高野山に、平重衡の墓が建てられている。