「多数決は民主主義ではない」だって!? | 安濃爾鱒のノート

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なんというか、私の「ノート」です。

 「多数決は民主主義ではない
安全保障関連法案を審議してゆく過程において、参考人として呼ばれた某弁護士が、こんなことを言っているのを見たとき、多くの人は、まず、「は!?ナニ言ってんだコイツ?」と思い、次に、「あぁ、こいつ、イッちゃってるな」と思い、「危ないひとから近づかないようにしよう」 と思って、それで流して、はい、この件は終了、だったのではないだろうか。
まぁ、それが、普通の大人の常識的判断であろう。
であるのだが、暇人の私は、この弁護士の「センセー」の言い分に、しっかり反論してみたい。

 この「センセー」が、
  「多数決は民主主義ではない」
ということばでいいたいことは、つまり、
  《 全員が納得するまで議論し続けるのが理想の民主主義 》
ということであろう。
そこが、この「センセー」のバカなところである。例え Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville 大先生の名前を出そうが、
《 単純な多数決は衆愚政治へと繋がる危険性を孕んでいる。多数決は常に少数意見の圧殺を伴う『多数派による専制』の側面があり『最大多数の最大幸福』『功利主義』が齎す倫理上の負の側面を常に孕んでいる 》
などと理論武装していようが、やっぱり、
 《 全員が納得するまで議論し続けろ、それが民主主義だ 》
などと主張している奴は、やっぱりバカなのである。

 現実の人間の頭の中には「バカの壁」があって、全員が納得するまで議論し続ける、なんてのは無理なように出来ているのである。
 じゃ、なんで人間の頭の中には「バカの壁」があるか、というと、「バカの壁」がなければ、みんなで話し合って、最善の解答に辿り着いて、みんな同じくその最善の解答どおりの行動をするようになる。
 それじゃ、「利己的遺伝子」は困るのである。「利己的遺伝子」は、個々の生体の幸せには全然興味は無くて、ただ、自分(:遺伝子)が生き残ることができればそれでいいのである。だから、「利己的遺伝子」にとっては、個々の生体が、みんな一緒の行動をしたら、環境の激変などの不測の事態とかがあったら全滅してしまうリスクがあるので困る。みんなにバラバラに行動させたい。そうすれば、環境の激変などの不測の事態があっても、どれかの生体が生き残り、遺伝子が生き残ることができるからだ。だから、「利己的遺伝子」は、多くの生体にバラバラの行動をさせるために、話し合って、最高の解答を得て、みんな一緒にそっちを選らぶ、なんてことにならないように、頭の中に「バカの壁」を設けている。
 というわけで、現実の人間の頭の中には「バカの壁」があって、全員が納得するまで議論し続ける、なんてことは無理なのである。
 そんな、個々の生体の幸せには全然興味がない利己的遺伝子が設定した障害を乗り越えて、人間がよりマシな選択肢にたどり着くために必要な措置が 多数決 なのである。
 「話せばわかる」なんてのは嘘だから、現実的に取りうる最もマシな回答を捜して多数決をしている、ってことは、普通の人間なら、上にツベコベ書いたような話抜きで、当然判っていることなのであるが、上に挙げた弁護士の「センセー」は、《 全員が納得するまで議論し続けるのが理想の民主主義 》という空論に逃避することで、現実に国民の生命財産を守るにはどうしたらいいのか、という議論から逃げて、脳内の「オレサマ賢い、一般大衆はバカ」という妄想世界に引きこもっているのである。

こんな奴の生身も、真面目な政府・真面目な自衛隊員の地道な活動によって守られている。

民主主義