TVで「美人」担当のタレントを見てイライラするのは何故か | 安濃爾鱒のノート

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これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 最近は随分減ったようだが、昔は、電車の中で携帯電話で大声で話している人が結構居た。
 これは、周りの人にとって、かなり不愉快なものであった。
 では、何故、そんなに不愉快だったのか?
 一般には 五月蠅いから、と よく言われてきたが、そうではないのではないか?
 こっちは、他人が電話で話している内容は横から盗み聞きしてはいけない、と 一生懸命聞かないように努力しているというのに、その電話の声の主は、そういうこっちの配慮なんかお構いなしで平気で大きな声で電話している、というところに腹が立つのではなかったのだろうか?

 TV番組をみていて、自分には美人には見えない人が、「美人」役を担当しているという場面に出会うと、なぁんか、腹が立つ。
 私だって、「美人女将の名物旅館」とか「美人女子アナ大集合」なんていうタイトルにいちいち文句をつけるもんじゃない、という「大人の常識」を持ち合わせている。
 でも、やっぱり、なぁんか、腹が立つことがある。

 なんで腹が立つのか?

 先ずは、《 XX さんは美人 》というのを押し付けてくることに対する不快感。

 自分の考え・趣味をやたら押し付けてくるオバはん、 「やっぱりXXよね。あなたもそう思うでしょ」とかいってそれに同意することを強要し、同意しなかったら不貞腐れたり悪態をついたり不貞腐れて悪態をついたりする嫌ったらしいオバはん 若しくは オバはんっぽいおっさんに捕まって相手させられてしまったときに感じる不快感。
 通常の「いいおとな」は、まわりの人とのトラブルを避けるために、できるだけ相手の話に合わせようとするものである。この手の人たちは、そういう 一般のまともなひとたちの 善良なところに付け込んで、周りの人に自分の考えを押しつけることを普段から行っていて、いつもそれに成功しているものだから、その結果、周りの人は、みんな、自分の言いなりになるもの、自分にとって都合よく利用できるもの、と決めつけているから、そうならない人に出会うと、まず戸惑い、そして、それは相手が悪いからと考え、自分の思い通りにならない相手を罵倒する。
 自分のカルトイデオロギーをみんなに押し付けようとする 空疎でマンネリな文章を書いて 批判されると 平和主義とか人権とかの言葉を歪曲し悪用した文章で 自分に都合の悪い人間を攻撃する 朝日新聞論説委員・記者の文章を読んでしまったときに感じる不快感。

 と言う風に、自分の考えを押し付けてくるひとに対する不快感というものはある。

 だが、不快感の最大の原因はそこではない。

《 XXさんは美人 》 というのを押し付けてくるとき、実は、それは2段階の押しつけから成っている。
つまり:

  1. 普遍的な美人、万人にとっての美人、というものが居る
  2. この番組では、XXさんがそれである

不快感の出どころは、2. のほうというより、その前提である 1. の方をこっそりと無条件に勝手に決めつけて押し付けてきている点である。
問題は、

  1. 普遍的な美人、万人にとっての美人、というものが居る

の方である。

 物理学者 Paul Adrien Maurice Dirac の言葉:
  "Physical laws should have mathematical beauty"
の中の "beauty" という意味で、普遍的な美の存在を論じているのなら兎も角、生身の人間の外観の美醜という意味でなら、普遍的な美、万人にとっての美なんて、そもそも在るわけないのである。
 なのに、あたかも、普遍的な美人というものが存在することは既に世間で認められていることと決めつけて、それに重ねて、ほらこのとおり、実際に美人をここに連れてきましたよ、という、美人の押し売りをして、そして、こういう場面でいい大人はいちいち文句をつけないものだという常識でもって反論を封じてしまう、そういう二重三重の卑怯で欺瞞的な態度が不愉快なのである。