2010年にフィールズ賞を受賞したフランス人大数学者
Cédric Villani (セドリック・ヴィラーニ) 先生
は、なかなかの日本贔屓だそうで、彼のエッセイ:
"Théorème vivant" (「定理が生まれる」)
の中に、彼が日本の漫画・アニメ・映画に興味を持っている話が載っているそうだが、そんな、日本贔屓ゆえの幾つかのエピソードの中の一つとして、
日本料理の「懐石」と、
数学用語の「解析」が
同じ発音である
ということを面白いと思っている
なんて話が載っているそうである。
くだらない。
大数学者で日本贔屓のかたに こんなことを言うのは失礼だとは思うが、実にくだらない、と思う。
ただの、誤解である。
彼には、というか、多くのフランス人には、日本語の造語能力の高さ、新しい言葉を生む力が理解できていない、というだけの話である。
つまり、それくらい、フランス語には新しい言葉を生む力が欠如しているのである。
フランス人の中華思想 ethnocentrism の最たるものである、
《 フランス語は最上の言語であるので、
絶対これを守らなければ成らない 》
という馬鹿げた dogma による弊害の一つとして、フランス語は、新しい言葉を作る能力が低い。
だから、フランス語人間は、上にあげたような馬鹿げた誤解をする。
日本語の方は、昔も今も、次から次からどんどん新しい言葉が作られては消えてゆく、という言語である。
それを、「知識人」「文化人」のセンセーサマたちが、あしざまに言う。
そもそも彼らは、一般大衆のすることを悪く言っておけば、
《 一般大衆は愚かで、俺様は賢い偉い 》
ということになると思っているのだろうから、この手合いの連中の言っていることなんて、テキトーに聞き流しておけばいいんであるが、困ったことに、言葉を商売とする人たちの中に、この、次から次からどんどん新しい言葉が作られては消えてゆく、という日本語の特性を批判する虚業人間の言葉にいささか影響されちゃう人がいるようなので、私としては、ちょっといっておきたい。
この点について日本語と正反対のフランス語を母語としている人を見てみようではないか。
フランス人の中華思想、ethnocentrism の典型である、《 フランス語は最上、絶対守れ 》という、非フランス人には全く馬鹿げた dogma による弊害の一つとして、フランス語人は異文化理解力が低い、という障害を成すことがある。
ときには、その程度はかなり酷く、それは、数学界の頂点であるフィールズ賞を受賞する、という現在世界最高クラスの抽象世界の思考を可能にする頭脳の持ち主であっても、この障害を乗り越えることが出来ないほど、なんてことも、あるのである。あったのである。
日本人は、これを、他山の石、反面教師 とすべきである。
フランス人のフランス語超保守主義を良く示すエピソードとして、《 "Cocu" という苗字の人が そのイメージの悪さから改名を望んだが裁判所から却下された 》という話があるが、これは、フランス語超保守主義を哂うためのエピソードではあるが、反面教師になるほどのものではない、と思い、この Villani 先生の言葉を引き合いに出してみた。