「数字のトリック」というレトリックのトリック | 安濃爾鱒のノート

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これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 或る頃から、

  「数字のトリック
という言い回しをよく聞くようになった。

 

 経済学者とかがこの言葉を使って、その後に どうトリックなのかの説明が続く場合は、全然問題ないのだが、そうではなくて、市井の一般人が、この言い回しを使う場合は、大体、使い方が間違っている。

 

 結論から言うと、「数字のトリック」というレトリックの 間違った使い方というのは、

 

  気に食わない、感情的に受け入れ難い統計データを見ると、
  それを受け入れないことを正当化するために
   「数字のトリック」
  という言葉を使う

 

というものある。

 

 客観的な情報が、自分の思い込みや直感と食い違っているとき、ちょっと立ち止まって考えてみる、ということを一切しないで、客観的な情報の方が間違っていて、自分の思い込み・直感が絶対に完全に正しい、と断定する。そしてそういう行為を正当化するため、「数字のトリック」というレトリックのトリックを使うのである。
 
 この手の方々は、朝のワイドショー・週刊誌などの占いや、血液型性格判断を信じるような判断力でありながら、自分の思い込み・直感・記憶の無謬性は かたくなに信じている。

 

 昔は、この手のヒトは、「実感とは違う」というレトリックを良く使った。

 気に食わない統計データを見れば、「実感とは違う」といって、そのデータを拒否した。

 自分の「実感」と合わないからこのデータは間違っている、と決め付けるのだ。

 統計データは、人間の「実感」などというあやふやなものと違うからこそ価値があるのだ。

 人間の感覚や記憶は、感情で歪められるものだから、そんなものでは、実態、本当の状況を正しく把握することが出来ないから統計をとり数値化し客観的な情報にするのだ。なのに、それを「実感とは合わない」といって拒否するのだか、そういう人は、自分の感覚記憶を絶対のものと確信しているのだろう。こんな人は、普段の日常生活から、自分の勘違い記憶違いで周りの人を非難する困ったひとであろう。

 

 で、やがて、この「実感とは違う」というレトリックは、使い古されて手垢の付いた感じがしてカッコ悪くなって流行らなくなって聞かなくなって、その代わりとして、この手の、自分の主観を絶対視して、それに合わない客観的な情報を拒否して、且つ、そういう行為を正当化する台詞を必要としている人がよく使うようになったのが、この「『数字のトリック』というレトリックのトリック」である。

 

 しかし、これも、結構前から長く使われてきたから、そろそろ飽きられてきているのではないか。

 で、次の、新しい [レトリックのトリック] が発明される頃ではないだろうか?

 自分の主観は絶対でそれに合わない客観的な情報は全否定、且つ、それを正当化する台詞を必要としている人は、全然なくならないのだから、必要は発明の母といわれている通り、どこかの「小銭稼ぎのコメンテーター」が発明するのではないか。