利己的遺伝子論という考えがある。
1970年代の血縁選択説、社会生物学の発展を受けて、 George Christopher Williams (ジョージ・クリストファー・ウィリアムズ)、Edward Osborne Wilson (エドワード・オズボーン・ウィルソン)らが提唱し Clinton Richard Dawkins (クリントン・リチャード・ドーキンス)が 1976年に、これを一般向けに解説した本:"The Selfish Gene" (『利己的な遺伝子』)を出して、これで一般に広く受け入れられるきっかけとなった考えかたである。
人間が遺伝子を持っている、というのは勘違い・思い上がりであり、人間は、遺伝子の乗り物に過ぎない、というのである。
("We are survival machines—robot vehicles blindly programmed to preserve selfish molecules known as genes." )
確かに、遺伝子は、或る意味で個人の存在を全く認めていない節がある。
DNAには、種としての存続を最大最終目標とするアルゴリズムが組み込まれている。
DNAを持つ個々人の幸せよりも、種としての存続を優先する。
DNAが各個体の幸せを考えないわけではないが、それは、種としての存続の手段に過ぎず、種としての存続に優先することはない。種の存続に反しないという制限付で個体の幸せのための働きはするが、個体の幸せのために種の存続に反するようなことはしない。
種の存続のためには各個体を平気で犠牲にする。
DNAは、個々の人間に対し、異常に高い目標の設定を強いて、更には、その実現に向けて、様々な、無謀な挑戦を強いる。
「挑戦を強いる」というのは手抜きのレトリックで、冗長性のデメリットを恐れず丁寧に説明すれは、DNAは、人を騙して迷わせて、成功の確率が低いことを、自ら好んでやろうとするように仕向けている。
人は、今、目前にある課題について、やるべきか止めるべきかを判断するさい、そのメリット・デメリット、実現可能性とリスクを冷静客観的に統合判断することを妨害する。
成功する可能性を過大評価、失敗する可能性を過小評価させ、成功したさいに得られるものを過大評価、失敗した際に失うものを過小評価させる。
自分は賢くて、周りの人はバカだと思い込みたがっており、実際、普段はそのように勘違いしている。
自分は強くて、周りの人は弱いと思い込みたがっており、実際、普段はそのように勘違いしている。
そうして、人を、自惚れと希望的観測の中に埋めて、無謀な 損得勘定の合わない挑戦へと導く。
種の存続の為には、多様性を持って居る方が都合が良い。
同じ種に属する大量の個体が、多様性を持ってないと、現状維持にはよくても、将来の大発展の見込みはない。
また、多様性を持ってないと、環境の変化に対応できないので、将来、種として絶滅する可能性がある。
だから、種の存続のためには、個体の多様性を持って居る方が都合がよい。
だから、個々人の幸せよりも、種としての存続を優先するDNAのアルゴリズムは、
各個体にたいし、様々な、無謀な高望みを押し付け、成功する可能性の低い挑戦を強いる。
100の個体に対し、夫々ばらばらに、成功する可能性1%の色んな挑戦を強いる。
99の個体は、不幸な結果を蒙り、たったひとつの個体がハッピーな結果を得る。
DNAにとっては、種の存続のためには、それでOK、ということになっている。
だがしかし、無謀な挑戦をして失敗した99の個体の側は、大変である。
その失敗経験、挫折から、大体、とても、心が傷つくものである。
また、実際には無謀な挑戦はしなかったもっと多くの個体群も、無謀に高い目標に対する不戦敗という負け犬感から、やはり挫折を味わい、心が傷つくことになる。
種の存続のためには各個体を平気で犠牲にするDNAは、個々の人間に対し、様々な、無謀な高望みを設定することを押し付ける。その高い要求レベルと現実の能力の差が、向上心・努力の源となって、一部の成功者、人類の進歩を作り出してきており、それが良い結果を齎す例もあるのだが、そういうのは千に一つの少数派で、99.9%の多数派は、高い要求レベルと現実の能力の差が各個体に心の傷を残すだけのものとなっている。
そして、そういうった、失敗経験や不戦敗の劣等感が作った心の傷を持った人の中の一部は、その心の傷が化膿して、こころの病気となってしまう。
しかし、そういった心の病気を持つ人たちに対して、 医者や心理学者が出来ることは とても不十分である。
そこで、そういうふうに、悩んでいる人達に対し 現実にその苦しみを低減させるような行為、tranquilizer の効能を持つ intangible placebo を提供するような行為を担当する人が、社会的に必要とされる。
そして、そういうのが得意な人の中から、それを商売とする人が出てくる。
気休めの嘘を言って欲しい人にそういう嘘を言ってあげるという商売である。
こうして、宗教や心霊ものの話が発明されたのである。
また、この手の心の病気に関しては、医者や心理学者といった、科学的アプローチでヒトの病気を治したり癒したりする人たちは、得意ではない。彼らは、ヒトが 本来在るべき状態から外れている状態であるゆえに起きる不具合に対処するのは得意だが、このような、そもそもヒトのDNAにそうなるようにプログラミングされているゆえに起きることに対処するのは得意ではない。彼らは、ヒトが生物として、そもそもそうなるように出来ているということに反する行為をするのは苦手である。そういうのは、SFの世界のマッドサイエンティストが担当することであって、まっとうな科学者には向いていない。
というわけで、宗教者や霊能者とかの類は、人類が、その根本的なつくりから必然的に発生する問題への対処法として、必要とされる存在であり、かつ、この商売を行ううえでの有力な商売敵はいないのだから、
彼ら、宗教者や霊能者は、この、DNAのプログラムによって、多くのヒトは心の病気になるように出来ている、という、ヒトの生命の根本が変わらないかぎり、ずーと、永遠に「カモ」(と言って悪ければ「お客」)には困らないのである。