San Cristóbal de las Casas への道 | 安濃爾鱒のノート

安濃爾鱒のノート

これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 私は、英語西語で自分の名前を書くとき、

  Sugiura Kenji、又は Sugíura Kenji

と書く。決して

   Kenji Sugiura

とは書かない。

 以前は、これは、自分で書く場合のみ拘ることで、他人が勝手に書いた場合は、Kenji Sugiura と書かれても、放置していたが、或る時を境に、その場合も、私の名前は Sugiura Kenji であって、Kenji Sugiura ではない、と、いちいち訂正するようになった。

 特にクレジットカードの券面の印字などの場合は、絶対に作り直させる。

 出来ないといわれたら解約するつもりだ。

(実際には、そういうことは今まで一度も無かったのだが)

 そうするようになったのは、あの時からだ。

 その「あの時」の話。

 

 その日、私は、数回目のメキシコ(México) 旅行の第3日目、

   オアハカ (Oaxaca)

から

  サン・クリストバル・デ・ラス・カサス

    (San Cristóbal de las Casas)

へ向かう長距離バスに乗っていた。

 そのバスに乗ることになったのは、まったくの成り行きに過ぎない。

 San Francisco から飛行機に乗って、México の首都 México D.F. (:俗に言うメキシコシティ)についた翌日、TAPO と呼ばれる、長距離バスターミナルに行き、ETN というデラックスクラス専用長距離バスの会社の窓口に並んで、自分の順番が来るまで、さぁて、今回は、どこに行くかな?と考えていたら、未だ行き先が決まらないうちに自分の番になってしまった。

 そのとき思いついた地名がたまたま オアハカ(Oaxaca) だっただけのこと。

 前日の San Francisco からの機内で、通路を隔てて隣に座ったアメリカ人の少女が、機内でCAから配られた入国書類を記入するのに、

   「『オアハカ』ってどう書くのか解らないから教えて」

と聞かれて教えてやったことを思い出しただけ。

 というわけで、窓口で、いかにも México 美人らしいオネイサンに、翌朝1番のオアハカ(Oaxaca)行き、といって席を確保し、そのとおり、翌朝、メキシコシティ(正確には México D.F.)から、8時間ほどバスに乗り、オアハカ(Oaxaca) にきて、郊外の モンテ・アルバン(Monte Albán)の遺跡や、市内のカテドラル(大聖堂)などの観光をした後、市街地のど真ん中、「ソカロ」に戻ってきた。

 中南米諸国の殆どの都市がそうであるように、オアハカでも、「ソカロ」(Zocalo)と 呼ばれる広場を中心に街が広がっている。

 ここの広場の中にあるカフェテリアに座って、Corona という、México らしい味の薄いビールを飲みながら、地図を開いて、さて、これからどうするかな?と考えていた。

 ここからだと、チアパス(Chiapas)が、結構近い(といっても、バスで7、8時間)んだな、ということと、ここからだと夜行バスが出ていて、今夜それに乗れば、翌朝には チアパス の中心地(と私が勝手に思い込んでいた)サン・クリストバル・デ・ラス・カサス(San Cristóbal de las Casas) には居るんだなぁ、と気がついて、

 (その頃 チアパスって、なんか 「地の果て」みたいな印象を持っていた。

   その前に、南米 Perú のアマゾンジャングルの中の陸の孤島の街に

  住んでいたこともあるくせに)

 即、市内循環バスに乗り、郊外にある長距離バスターミナルに行き、その日の夜のサン・クリストバル・デ・ラス・カサス行きのバスの席を確保した。

 その後、一旦 ソカロ辺りに戻り、だらだらと過ごして、夜、再度バスターミナルに行き、一番にバスに乗り込んだ。

 バスは意外にも定刻どおり発車し、ドイツ製のバスの車内もそこそこ快適で、道は、当分の間は、米国の Interstates のようによく整備されており、オアハカ郊外の風景を確認する前に寝てしまった。

 

 目が覚めると、バスは、夜明け前の薄明かりの中、峠越えのきつい上り坂を進んでいた。

 峠越えといっても、個々のカーブは、概ね緩く大きくて、道路も、片側1車線であるが、それで十分な交通量しかなく、舗装状態にも問題なく、米国の田舎道程度の快適さであった。

 やがて 峠を越えて、後1時間もしないで目的地(:San Cristóbal de las Casas)に着くだろう、という時だった。

 郊外の平地の まっすぐな一本道の途中に、検問所のようなものがあって、そこでバスが止められた。

 運転手が バスのドアを開けた。

 軍服らしきものを着た若い兵士風二人が黙って入ってきた。

 二人とも ライフルを担いでいる。

 二人は左右に分かれて手分けして、客席上部にある荷物棚の荷物を順次見ていった。

 肩にかけたライフルが あちこちにぶつかったり何度もずり落ちそうになったりで、非常に邪魔そうに見えた。

 たまに、大きなズタ袋風荷物があると、その近くの人に声をかけて持ち主に問い質して 中を確認していた。

 小さなかばん一つだけの私の荷物はなにも言われなかった。

 二人は最後部までたどり着いたら、黙って戻っていった。

 その後、外で、ドアを開閉する音がする。

 バスの横っ腹から出し入れするトランクの中を調べているのだろう。

 そしてその後、さっきのとは別の ちょっと太った中年のちょっと偉い軍人風

  --その後の会話で、若い兵士たちは彼(デブ中年男)のことを

    "Sargento"(:英語の"Sergeant" に相当)と呼んでいたように思う

     "Sargento" は普通「軍曹」と訳されることが多いが、

     日本語の「軍曹」と違い、"Sargento" は、警察の階級にも使う。

     中南米各国にもスペインにもイタリアにも、警察と軍隊の

     中間的存在の重装備警察、マシンガン重装備警察、

     とでもいうものがある--

が、車内に入ってきた。その後ろから、さっきの若い二人の兵士(?)がついてくる。

 軍曹(?)は、黙って、前から順番に乗客の顔を見てゆき、たまに声をかけている。

 どうも、身分証明書的なものをチェックしているようなので、他の乗客たちは、それぞれ自分のものを用意して待っている。

 私も、自分のパスポートを用意して待つ。

 どうも、外国人は概ね全員チェックさているようなので、私もそのつもりで待つ。

 私の前に来た。

 私の顔を見る。

  "Passport Please" (パスポートプリーズ)

と英語で言う。

  "¡Aquí tiene!"    (どうぞ)

と、スペイン語で答えつつ、私のパスポートを渡す。

  "Sight Seeing?"   (観光?)

  "Sí"         (はい)

と、ここもやはり、英語で聞かれ、スペイン語で答える。

 以下、ずーとそのまま。

  "Japanese Journalist?"

   "No" (いいえ)

すると、相手は、笑いらがら私をにら目付けて、

  "Japanese tourist, without Camera?",

で、私は、

  "Sí" (はい)

そして、また、

  "Private Journey of Japanese Journalist?"

と、変なイントネーションで再度聞いた。

 で、私もまた、

   "No" (いいえ)

彼は、私の胸のポケットの財布を指差して、

  "ID card please"

と、いった。私は、

  "Usted. ya tiene mi pasaporte."

   ( 既に私のパスポートを持っているだろ )

と言ったが、彼は再度、胸のポケットを指して

 "Yes. And ID card please"

と、今度は強く言った。

 私は、財布ごと彼に渡した。

 彼は、私の財布の中を細かくチェックして、最後に私のクレジットカードを取り出した。

 その名前を声を出して読んだ。そして、《 オヤ? 》という顔をした。

 そして、にやっ、と笑った。

 彼は、先ず、私のパスポートを見ながら、

   "Thank you, Mister Sugiura Kenji ,..."

と 言い、次に 今度は 私のクレジットカードを見て、大げさに驚きながら、わざとらしく

  "Oh!, sorry, Mister Kenji Sugiura"

といい、一旦、その両方を私に返すふりをして、途中でその手を止めて、わざとらしく両方を見比べて、大げさに驚いてみせて、私にウインクをした。

 

 私は、二人の若い兵士(?)に両腕を掴まれてバスから降ろされた。

 左の兵士のライフルが私の頭と足にがんがん当たった。

 彼らが乗ってきたらしいジープに乗せられた。

 前の運転席に、バスには乗ってこなかった初めて見る第3の若い兵士(?)。

 助手席に、先ほどのデブのオッサン軍曹。

 後ろの真ん中に私、その両隣に先ほどの若い二人の兵士。

 私は、右の兵隊のライフルの銃口を見ながら、ジョージ・オーウェル(George Orwell) の 『カタロニア讃歌』(Homage to Catalonia)の中の或るエピソードを思い出していた。

 

 スペイン内戦の頃の話で、オーウェルがジープに乗っていると、

 後ろの兵士のライフルが暴発して、弾が彼の頭を掠めた。

 オーウェルは、ちゃんと安全装置をかけてないのか、

 それとも、整備不良か、どちらにしても、こいつら、

 スペイン共和国政府(当時)の 正規軍の本物の戦場に居る

 兵士のレベルの低さを嘆く、

 彼自身の英国のパブリックスクール(:私立の中学高校)時代の

 軍事教練で経験したレベルにすら劣っている、

 

と嘆いているシーンを思い出していた。

 

 左隣りの若い兵隊が、私の視線を見て、自分のライフルの自慢を始めた。

 前のデブ軍曹(?)が、前を向いたまま、厳しい口調で、黙れ、と命令した。

 車は、やがて、埃っぽくて薄っぺらい活気の感じられない小さな田舎町に入った。

 小さな建物しかないその町ではダントツに大きい建物の前に着いた。

 頑丈なだけの殺風景な造りの建物だった。

 入るとき、建物の名前を読み取ろうとしたが、出来なかった。

 知らない単語が多くて そして やけに長い名前で、結局、解らなかった。

 小さい部屋に入れられた。

 バッグは取り上げられた。

 私の前に、小さいテーブルを挟んで、さきほどのデブおやじ(:軍曹?)、入り口には、さっきの若い兵士二人。

 ライフルを杖にして立っている。

 ( 映画のシーンのようにビシッと立っているのではなく、なんか気が抜けた感じがした )

 やがて、邪魔くさそうに尋問が始まった。

 「観光か?」

 「嘘だな」

 「ジャーナリストだろ」

 「観光といってビザなしで入国して取材活動をしたら違法だと判っているのか?」

 「カメラを持ってない日本人観光客なんておかしいだろ。」

 「なんでそんなにスペイン語が話せるんだ?」

 「なんで、複数の名前を使い別けるのか?」

 「銃に興味があるみたいだな」

 それらの質問にいちいち丁寧に答えた。

 

 カメラを持っての旅は、盗まれないように常に警戒しておらなければならず、草臥れること。

 ジャーナリストじゃない。ただの観光。

 私の名前はパスポートにあるとおり、Sugiura Kenji が正しい。Sugiura が apellido (苗字)で、Kenji が nombre (名前)。

 しかし、米国発祥のクレジットカードは、勝手に、人の名前を米国流に変えてしまう。

 米国の「平和部隊」("Peace Corps")みたいな組織が日本にもあり、その任務で ペルー(Perú)に居たことがあるので、スペイン語が話せる。

 ライフルを見ていたのは、或る小説の一部分を思い出したからだ。

等々。

 ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』の名前は出さなかった。

 この会話のころ、この軍人が考えていることについて私なりに想像していたのは、この数週間まえ、チアパスで、左派反政府組織と政府軍の間で軍事衝突があり、それについての米国や日本の報道は、左派反政府組織に同情的なものが多く、彼ら(政府軍側)は、それに大いに怒り、いらだっていたようなので、身分を偽るような後ろめたい態度で現地入りしてこっそり取材をしようとする日本人ジャーナリストらしき奴をみつけて、かっとなったのではないか、と。

 ジョージ・オーウェルは、スペイン内戦では、左派共和党政権(当時)側の援軍の国際義勇軍の兵として戦ったので、この名前を出すと、私は、左寄りだと思われてしまうのではないか、それはマズいだろうと思い、「ジョージ・オーウェル」と『カタロニア讃歌』の名前は出さなかった。

 しかし、"Peace Corps" と言っちゃったのは、まずかった、と思った。

 事実かどうかは知らないが、世界の多くの国では、米国の "Peace Corps" は、CIA の下級エージェントの隠れ蓑、といわれているらしい。

 知り合いの或る米国人、スペイン語学校でのクラスメートの弁護士も言っていた。

 スパイと間違われるくらいなら、新聞記者と間違われるほうがマシだった。

 しかし、幸いながら、奴は、その部分は気に留めず流してくれた。

 少しの沈黙の後、再度、同じ質問をされた。

 私は、また同じことを答えた。

 そして、また、少しの間の沈黙、そして、再度、同じ質問。同じ回答。

 これが数回、繰り返され、やがて、彼、デブ(:軍曹?)は出て行った。

 そして別の軍人風が入ってきた。

 また同じ質問、同じ回答、を数回繰り返した。

 そして、彼もまた出て行った。

 その後、別の部屋に連れて行かれた。

 

 牢屋という感じではなく、ただの空き部屋余り部屋という感じの殺風景な部屋だった。

 窓には鉄格子が嵌めてあったが、そもそも一般家庭でも防犯のために窓に鉄格子が普通の国である。

 私が入ったとき、テーブル上に既に私のバッグが置いてあった。

 中を調べた形跡はあったが、とくにぐちゃぐちゃでもなく、盗まれているものも無いようだった。まぁ、元々金目のものは入ってない。

 そこで、ぼーと待った。

   「何を」と聞かれても答えられないのだが。

   強いて言えば、「事態の進展」かな?

 やがて、勝手にドアが開いた。

 一瞬、何故か、稲川淳二の語りを思い出した。

 元々鍵が掛かっておらず、建て付けが悪く、勝手にドアが開いたのだ。

 廊下が見える。

 引き続き、じーと待った。

 廊下をガム(chicle)売りの子供が通った。

 こっちの中を覗き込み、やがて勝手に入ってきた。

 ガムを買ってくれ、という。

 要らない、と言って、コーラかなにか(gaseosa)はないかと尋ねた?

 手を出したので、硬貨を渡した。日本円で百円くらい。十分な筈。

 少年は出て行った。

 もし帰ってこなくてもそれでもいいと思っていたが、10分位して、少年はコーラを持って帰ってきた。

 少年は、右手にコーラを、お釣りの小銭を左の手のひらに載せてこちらに突き出した。

 お釣りは思っていたより多かった。

 コーラだけ受け取り、お釣りは、

   "Es tuyo"  (:そりゃ、お前んだ)、

 と言ったら、グラシアス(¡Gracias!)、といって笑った。

 少年に、ここはどこか尋ねた。

 少年は地名らしきことを言ったが判らなかった。

 地図上、そういう地名を捜したが見つからなかった。

 少年が左腕に抱え込んでいた小箱を指さしつつ、ガム(chicle)を呉れといいながら、先ほどと同じ硬貨を出した。

 十二分に足りている筈だ。

 少年は、左腕の小箱の中から小さなガムを一個呉れた。

 今度のお金は受け取らなかった。

 少年は出て行った。

 また一人になった。

 少年が出て行く時、挨拶の言葉はなんだったか?

 "¡Adiós!" だったら、やばいかもしれない、と不安になった。

 結局、解らなかった。

 待った。

 やがて、兵士(?)が入ってきた。初めて見る若い兵士(?)。

 やはり、肩にライフルを下げている。

 黙ったまま 身振りで、「来い」といっている。

 出てゆこうとすると、右腕で私を制止して、顎(あご)と左手でテーブルの上の私のバッグを指す。

 荷物も持って来い、ということらしい。

 バッグを担いで、彼に付いて行く。

 部屋を出て 殺風景で薄暗くて埃っぽくて長い廊下を通って、建物の出入り口にたどり着く。

 外が眩しい。

 外を顎(あご)で指して、行け、と身振りでいう。

 きょとん、としていると、軽く突き飛ばされる。

 ゆっくり歩いて、建物から出て行く。

 本当は駆け出したいのだが、何故か、駆け出すと、後ろから撃たれるような気がして、ゆっくり歩く。

 本当は後ろを振り向きたいのだが、何故か、後ろを見ると、撃たれるような気がして、じっと前を見て歩く。

 やがて、道路に出る。

 左右を見ると、左の方が繁華街っぽいので、左に曲がって進む。

 曲がる際、建物の入り口の方をちらっと見たら、先ほどの兵士(?)はもう居なかった。

 そこから、全力で走った。

 建物の名前を確認するのを忘れたが、戻って見直そうなんて気は起きなかった。

 体力が尽きるまで全力で走った。

 

 以後、私は、Kenji Sugiura と書かれたものは持たないようにしている。