《 阿南陸相 の 自決 と 東條首相 の 自殺未遂 》
浅田次郎 の
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『日輪の遺産』
( にちりん の いさん)
を読んだ。
面白かった。
十分楽しめたった。
(但し、やはり浅田次郎の作品で似たような状況の話として 「シェエラザード」というものがあって、私はその方がよりよく出来ていると思った。)
ところで、その他に、余禄として得た面白い話があったので、それをちょっと書き留めておく。
( なお、ネタバレになるようなことは書かない。)
この本で、浅田次郎は、1945年8月15日の、陸軍大臣の
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阿南惟幾
(あなみ これちか)
の割腹自決の理由について、「陸軍のトップとして責任を取った」とか「死ぬことで逃げた」とかいう陳腐な説明を排して、
クーデターを阻止するため
だったとしている。
ナチス・ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日 - 8月2日にかけて、米英ソの3カ国の首脳がベルリン郊外ポツダムに集まり、抗戦を続ける日本への対応と第二次世界大戦の戦後処理について話し合われ、(いわゆる「ポツダム会談」)米国、英国と中華民国の3カ国首脳の共同声明が発表された。
(いわゆる「ポツダム宣言」)
これを受けての日本側は、まず、8月9日深夜の第一回御前会議で、
東郷外相案
{「天皇の国法上の地位を変更する要求を含んでいない」
という了解の下にポツダム宣言を受諾しようとする案 }
と、
阿南陸相らの案
{ 更に、占領・武装解除・戦犯処置等の条件付とする案 }
が対立して、結論が出なかった。
やがて鈴木首相から、
意見の対立がある以上、
陛下の思し召しをもって 会議の決定としたい、
との動議がなされ、昭和天皇は初めて意見を述べる機会を得た。
私の任務は、祖先から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。
今日となっては、ひとりでも多く の日本国民に生き残ってもらい、その人たちに将来再び立 ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。
こうして、8月10日朝、昭和天皇の聖断が下り、降伏を受け入れる方針が決まった。
アメリカ側からの回答は 12日午前1時頃もたらされた。
その回答中、「天皇の国法上の位置」に関する日本側の唯一の条件に対しては、
「最終的の日本国の政治形態は、
日本国民の自由に表明する意思により
決定せらるべきものとす」
という曖昧な答えだった。
8月14日午前11時過ぎ第2回の御前会議が開かれ、再度の聖断が下り、無条件降伏を受け入れる方針が決まった。
これに対し、陸軍の一部中堅将校たちは、このまま国体護持の確約もないまま和平派によって降伏が決定してしまうことを恐れ、クーデター計画を立てた。
陸軍大臣の治安維持のための兵力使用権を利用し、東部軍と近衛師団を動かして一挙に和平派の要人を監禁し、大臣の上奏によって天皇に戦争継続の決意をしていただこう、とい うものであった。
(いわゆる「宮城事件」)
このとき、彼らの計画の鍵となるのが、陸軍大臣の持つ
「 応急局地出兵権 」
この「応急局地出兵権」により陸軍大臣は独断で治安維持の為の兵力を動員する事が可能となっている。
1945年8月14日のクーデター計画は、二・二六事件(1936年)の時のそれとはことなり、ただ、何人かの気に食わない閣僚を殺したいというだけの、クーデター成功後のことについてあまり考えてない単純な暴発ではなく、国家の意志を合理的に戦争継続へと運ぶことを計画したものであり、その行動に、法的な根拠を必要とした。
クーデターを計画した者達は、阿南陸相の持つこの「応急局地出兵権」でもって、軍を動かすことを正当化しようとした。
これに対し、阿南陸相は、クーデターを阻止するべく、陸相の持つこの「応急局地出兵権」を出来なくするため、陸相自身を空席としてしまおうとして、自決したというのである。
これによって、都内、特に宮城内外での日本人どうしの銃撃戦をすることなく、クーデターを阻止して、全軍静かに敗戦を受け入れさせる。
天皇が最も恐れた「終戦に反発する軍の暴発」を阻止するため、戦争継続派を自分:陸相にところに寄らしめた後、陸相の席を空席にすることで、戦争継続派を袋小路に閉じ込めてしまう、かくて全陸軍内外550万の将兵が一日にして矛を収め、静かに終戦を受け入れることになる。
しかも、その自決は、一般には、「一死、大罪を謝す」とかというふうに解釈され、まったく違和感なく受け入れられるだろう。
阿南陸相の自決は、そういうものだったというのである。
真相はどうだったのか、私にはわからないけれど、ちょっと面白いと思った。
それで思い出すのが、東條英機首相の自殺未遂。
![安濃爾鱒のブログ-東条英機](https://stat.ameba.jp/user_images/20130927/20/digitalalfabetizacion/09/6d/j/t01500192_0150019212697904109.jpg?caw=800)
1945年(昭和20年)9月11日午後4時17分頃、東條首相は、自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こった。
これなんだが、東條は、随分とおかしなタイミングで自殺を図っている。
8月14日・15日ではなく、それから1ヶ月近く過ぎた後にである。
何故か?
東條は、本来、死ぬことで責任を取る、などという逃避は許されない立場だった。
しかし、勝って"官軍"になった連合軍側の諸国の中が、天皇の戦争責任は問わない方向で終戦をまとめたい米国と天皇の戦争責任に拘る豪州などとの間で割れており、前者が東條英機を締め上げて天皇の戦争責任追及に都合のいい証言を出させようとする一方、後者、連合軍側の中で一番強い立場の米国はそれを阻止しようと画策している、という特殊な事情が出来し、
自分が死ぬことで、
天皇の戦争責任追及に拘るグループから
手段を奪うことができる、
という状況になった。
つまり、
《 逃避ではなく、
天皇の戦争責任追及を阻止するため
という前向きな理由で死ぬ 》
ことが可能となったのである。
だから東條首相は 自殺を図ったのではないだろうか。
阿南陸相も、本来、死ぬことで責任を取る、という逃避は許されない立場に居ながら、突如 クーデター計画が持ち上がり、その計画に、陸軍大臣の持つ「応急局地出兵権」が必要不可欠な要素になっており、つまり、
自分が死んで、
陸軍大臣の席を(少なくとも玉音放送まで)空席にすることで、
「応急局地出兵権」を使えなくする
「応急局地出兵権」を法的な根拠として利用する
クーデター計画を潰すということで、
自分の死によりクーデターを阻止する事が出来る、
つまり、
《 逃避ではなく、
(クーデターを阻止するため)
という前向きな理由で死ぬ 》
ことが可能になったから、阿南陸相は自決できた、ということだったのかもしれない。