الجمهوريّة العربيّة السّوريّة | 安濃爾鱒のノート

安濃爾鱒のノート

これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 西アジアでまたややこしくなってきた。

 こんどはシリア (正確には、日本語では「シリア・アラブ共和国」、英語では "Syrian Arab Republic"、

そして、アラビア語で الجمهوريّة العربيّة السّوريّة )

 このあたりのことについて、これまでの経緯と現状などをわかりやすく説明した文章をみつけたので、

その url をメモしておく:防衛研究所ニュース177号 ブリーフィング・メモ シリア情勢 ー現状と展望ー

 

 シリアのアサド政権側と反政府勢力側の双方が、相手が毒ガスを使った、と主張している。

 米国が、

  アサド政権が毒ガスを使った

と、云っている。

 ついこのあいだ、サダムフセインのイラクは大量破壊兵器を持っている、と云っていた米国が。

 

 

 

《 zbrodnia katyńska

 

 1939年9月、ポーランドはドイツとソ連の両国に攻撃され、全土が独・ソの占領下に置かれた。

 東半分はソ連が獲り 西半分はドイツが獲った。

 ソ連は、この後 ポーランド領内にてドイツ軍との戦闘になることを想定し、その際、背後からポーランド軍に攻撃されることを恐れ、ポーランド軍の壊滅を図った。

 ソ連軍に降伏したポーランド将兵は、強制収容所( Лагерь、ラーゲリ)へ送られるべく、列車に乗せられ、西へ向かい、そのまま消息不明となった。(総数:約22,000人)

 ロシア最古の町のひとつである Смоленск (スモレンスク)の近郊にある村 Гнездво (グニェズドヴォ)では 1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺された という噂が絶えなかった。

 独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はソ連領内に侵攻し Смоленск を占領下に置いた際にこの情報を耳にした。

 1943年2月27日、ドイツ軍の中央軍集団の将校は Катынский (カティン)近くの森「山羊ヶ丘」で ポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。

 3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。

 報告を受けた中央軍集団参謀ゲルスドルフは「世界的な大事件になる」と思い、Гнездво より「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落 Катынский (カティン, Katyń)から名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団から国民啓蒙・宣伝省に送られた。

 4月9日、独宣伝相 Johanna Maria Magdalena Goebbels は ワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。

 ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。

 ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このためドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。

 4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し《 Смоленск (スモレンスク)近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられ 殺害された 》と主張した。

 英国は Bletchley Park (ブレッチェリー・パーク、暗号解読の拠点) で ドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ドイツ軍が大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。

 また ポーランド亡命政府大使 Owen O'Malley (オーウェン・オマレー)は、事件がソ連によるものであると結論した覚書を提出したが、Winston Churchill (ウィンストン・チャーチル)首相はこれを公表しなかった。

 つまり、英国は、

  • カチンの森の虐殺の犯人はソ連
  • 本当のことを云っているのはドイツで、嘘を云っているのはソ連

ということを知っていながら、ソ連の嘘を支える行動をとった。

 その英国の首相が、今、

  アサド政権が毒ガスを使った

と、云っている。

 

 1944年、米国大統領 Franklin Delano Roosevelt は カティンの森事件の情報を収集するために、George Howard Earle (ジョージ・ハワード・アール)海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。

 Earle は枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが Roosevelt にこの結論を拒絶され、Earle の報告は彼の命令によって隠された。Earle は自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、Roosevelt はそれを禁止する文書を彼に送りつけた。Earle は任務から外され、戦争の残りの期間をアメリカ領サモアで過ごすこととなった。また事件の生存者である Jozef Czapski (ユゼフ・チャプスキ)は、1950年から "Voice of America"(「ボイス・オブ・アメリカ」)のポーランド向け放送を担当することになったが、その際には事件に対して言及することを禁じられている。

 

 その米国の大統領が、今、

  アサド政権が毒ガスを使った

と、云っている。