#養老孟子
コスパやタイパを重視する人が見落としてしまっていることがある 養老孟司さんが語る「厄介な人生を軽く生きる」ためのヒントとは 『人生の壁』試し読み/ブックバン
「気分を変える、気を紛らわすというのは生きていくうえでとても大事なことです。」
がん治療関連の情報を収集するようになって5年ほどが経つのですが、最近の傾向として肌身に感じることは、大したニュースが無い、ということです。
ネットでオープンにされる情報の性質とか、報道傾向が変わっただけならまだよいのですが、日本人が携わっていて日本語で公開される情報の質、がん治療関連の情報が随分と乏しくなっています。
というのは、SNSを開始して間もない頃は、1日に10本ほどのニュースをピックアップしても、まだまだ紹介したいものがある、というような状況でした。
それで、夜中でもアップするものですから、うっとしがられたのでしょう、フォロワーがどんどん減っていった事もありました。
そんな状況であったのですが、新型コロナ肺炎のニュースが少なくってきた頃から、どうも、見るべきニュースが減って来たなという感があり、最近に至っては、1日に1本も無いような状況になっています。
それが言い訳ということでもないのですが、がん治療に取り組んでおられるお医者様であられて、哲学者ではないかと思うほどの深いところからの見地で本を執筆されたりている養老孟子先生の本の紹介記事があったので、紹介させていただきました。
本は、一部分を見たところでどんなものかはわからないのですが、私にはこの記事に紹介された一部分がとても心打たれたんです。
あくまでご本の宣伝ですから、私も宣伝させていただくという事で抜粋させていただきますね。
【抜粋】
厄介なことを避けたいのは当然です。しかし、人生において効率のみを追求することはおすすめしません。大切なのは、精一杯生きること、本気で生きることです。
好きな言葉に「メメント・モリ」と「カルペ・ディエム」があります。いずれもラテン語で、「メメント・モリ」は「死を想え」、「カルペ・ディエム」は「今日を精一杯生きろ」。
二つの言葉は対になっていて、中世の修道院で挨拶のように応酬されていたといいます。最近、ヤマザキマリさんは『CARPE DIEM 今この瞬間を生きて』(エクスナレッジ)という本を出しました。茶道の裏千家の代表的な茶室、今日庵(こんにちあん)も同じ考えから名づけられています。「今日を生きる」ことの大切さが名前の由来です。
しかし、この「今日を精一杯生きる」ことへの思いが今は足りないのではないでしょうか。本気で死を思っていないから、精一杯生きることも真剣に考えていない。
がんになって余命宣告でもされれば、「今日」の大切さに気付くのでしょうが、普段はそうはならない。
余命一年だと言われれば、会社を辞めようと思う人は多いでしょう。しかし、ではなぜ今辞めないのか。生活のために働く必要があるのは当然として、現代人は本気で生きることを考えていないのではないか。
コスパ、タイパといった言葉に象徴されるように、いまは本気とか全力といったことの価値を軽く見ているのではないでしょうか。コスパはコストパフォーマンス、タイパはタイムパフォーマンスの略です。費用対効果が良ければコスパがいい、あまり時間をかけないで成果が上げられれば、タイパがいいということになる。
つまり余力を残すことにものすごく価値を置いています。全力で何かを成し遂げるよりも、何割か余力を残したほうが「パフォーマンス」はいいのですから。
勤め人であれば、定時になれば帰る、土日には必ず休む、というのもそういう価値観につながっています。全力を尽くすこと、全精力を傾けることをともすれば、損をしているように捉えている。七割の力で会社に与えられたノルマが達成できれば結構なことだと考えているようにすら見える。
これがわかりません。もしも全力を尽くせることがあるのならば、ありがたいことなのです。他人と比べて、自分のコスパやタイパを考えて、損をしているなどと計算することに何の意味があるのか。
私も働いていれば、やりたいことだけやるわけにはいきません。あっちで厄介ごとに巻き込まれ、こっちで何か相談に乗りとやって、今日一日、自分の仕事はちょっとしかできなかった、なんてことが日常茶飯事です。
コスパもタイパも決して良くはないでしょう。ほとんどお金にならないようなことに多く時間を取られているからです。
ではそれで損をしているのでしょうか。やろうと思えば、面倒な仕事や頼まれごとは全部断ることもできるでしょう。自分で断るのに気が乗らなければ、秘書に頼めばいいだけのことです。
でも、これまではコスパやタイパを第一には考えないようにしていました。受けられる仕事はなるべく受けてきたのです(病気になってそうもいかなくなりましたが)。年が年なので体力との兼ね合いはありましたが、依頼があるということは、私に何らかのニーズがあるのだろうし、やることで世の中が今どうなっているかということを知ることもできる、と考えていたのです。
無理をしていたのではなく、そこに何らかの生きがいを感じていたのです。私がやらなくてもいいし、やってもうまくできるとは限りません。なぜ自分が呼ばれるのかという場で講演することも珍しくありません。
ただやることになれば、そこでできるだけのことはやる。そのあとでいちいち反省はしない。うまくいかなかったな、などとくよくよ考えることはありません。
これは昔からそういう性格なのです。自分が出演したテレビ番組も見ません。へたに見ると反省するからです。
やってしまったことをあれこれ考えても意味がないと思っているのです。反省している暇なんかない。
自分の書いた本も読みません。くよくよしても仕方ない。
もちろん人間なので、つい振り返ってしまう気持ちになることもあります。今も家に帰ると、一緒に暮らしていたネコの「まる」がまだ生きていて、そのへんをうろうろしているような気がしてしまいます。でも、それもあまり考えないようにしよう、と思うのです。
●軽く生きることを心がけてみたら
ついつい何でも振り返り、くよくよするタイプの人がいます。
そういう人は、もうちょっと軽く生きるよう心がけてみてもいいのではと思います。気分を変える、気を紛らわすというのは生きていくうえでとても大事なことです。軽く思われているようなことだけれども、実は重要というものがあって、気分はその一つです。
「今日は気分が悪いから一休みしよう」といったことを許さない社会、小回りのきかない社会になってしまいました。しかし、そういういい加減さがあっていいのではないでしょうか。
どうも真剣さと深刻さを混同している人がいるように思います。つまり、その人の心の闇とか、過去の辛い体験を正視することを勧める風潮です。そういうものと正面から向きあわないと前へ進めない、といった意見はよく目にします。
とくに学者はそういうことを言いがちなのですが、向き合う義務なんてありません。誤魔化すのも一つの手です。それで自分自身の気分が良くなるならいいではないですか。
無理やり辛い体験などを思い出す必要はないのです。忘れていて日々が暮らせるのならそれでいい。
(以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて)