#死生観
〝いのち〟と向き合う死を恐れない終末期医療 川村病院緩和医療部長・大木学さん/zakzak
●ある患者さんの「私、病気になってよかった」という言葉から「病気って何だ」という根源的な疑問に
●〝いのち〟は生きているものからのみ成り立っているわけではない、という考え
https://www.zakzak.co.jp/article/20230701-F33ZGO32LJIQFKFF5GUEQAWV2A/
死生観のお話がメインになります。
これは、軽はずみに取り上げる話題ではないのですが、ご病気をされている方に関わらず、全ての人に関係することでもありますから、時々取り上げています。
「キャンサーギフト」の話が、実は毎日のようにどこかのメディアで上がっています。
しかし、私には”キャンサー”と”ギフト”が、どうしても接続出来ない自己摂理がありまして、ここからは一歩引いています。
「そんなギフトは要らん」というのが人の心情だと思うから、でしょうか。
仕事やこうしてSNSをやっていく中で、この死生観について、特にがん患者さんにおいてはどうか、ということを、あくまで傍観者としてではありますが、見つめることが多くなっています。
すると、キャンサーギフトというわけではないけれど、命についての時間的な長さや短さは、あまり重要なことではないのではないか、という考えを少しだけ持つようになっています。
こちらの記事、大木先生の言葉の続きを是非追いかけてみたいと思うのですが、その入り口を提示されているように思いました。
私にはやはり、がんに罹患することがギフトとか、ギフトが付いているのだとは思えないのですが、命とはどういうものなのか、という考えに取り組むことや答えを見出せるなら、それは確かにギフトなのかも知れないと思うようになりました。
いや、それそのものがギフトと言うよりも、私にはまだまだわからない次元で、命に真剣に向き合った方に与えられるギフトがやはりあるのかな、と。
記事中にある「誰もが必ず経験する死を正面から見つめ、医師と患者ではなく、人と人として接する中で、エビデンスでは片付けられないことに目を向ける医療の必要性を感じた」について、まさにそこにギフトが存在しているのではないか、と思いました。
致死率で言うなら、全ての人が100%です。
しかし、亡くなり方というのはバラバラです。
これが意味するものの一つは、全ての人が致死率100%であるのに、そこに向けて備えることが出来る人と、出来ない人がいるという現実です。
備えと言うと、相続がどうとか、経済的問題とかはもちろん大事ではあります。
また、生きているうちにやっておきたいことをやっておく事、これもまた備えと言えるかも知れません。
しかし、あくまでも私の考えですが、最もご本人にとって大事なのは、命の備えだと思うのです。私にはその答えが見つかっていません。やはり次元が違う世界だからです。
ただ一つ言えるのは、やはり命について備えることが出来る方が良いということです。
つまりその備えがギフトであり、がん患者さんのほとんどの方は命に向き合うことになるわけですから、そういう意味でのキャンサーギフトってあるのではないか、と思うのです。
支離滅裂ですみません。