こんばんはdigidonです。
30代の女性アナウンサーがカラコンをつけるのはありやなしやとテレビでやっていたと、ヤフーニュースになっていたのを見ました。少し気になったので、今日はこの話です。
前回のブログで、「幸せになりたければお布施でお金を」という宗教は似非だと書きましたが、カラコンをしないとテレビに出られないアナウンサーの存在は、日本人と宗教の関わりという意味でとても大切なことを示唆しているように思いました。
ところで、皆さんは、「宗教」という言葉を聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
自分の家は仏教の何宗で~とか、いやいや家は仏教じゃなくて神道だから~という話や、国内ではオウム、国外ではISなどなにやら宗教に絡むと恐ろしいことになってしまうのではないか~とか色々な意見があることかと思います。
私が「宗教」ときいて思うのは「心の安らぎを与えるものであれば何でも構わない」というものです。例えば、医療が発達する前に人々はどのようにして、治療を行ったかと言えば、経験に基づいて薬草を使うか、加持祈祷を行っていたわけです。薬草の方は後に薬学として発展して本当に効果があるものと単なる言い伝えに過ぎないものが選別されていくことになるのでしょうが、翻って加持祈祷はどうでしょうか?程度の差こそあれ、未だに自分や他人の健康を、神様、仏様に期待している人は多くいるのではないでしょうか?これだけ医学が発達しているのですから、医学的に健康のためのお守りを買ったり、手術が成功するようにとお祈りをしたり、ましてや病気そのものを治すために加持祈祷をあげることに本質的な解決がないことは証明ができると思います。では、なぜ人間はそれでも神様、仏様を頼ってしまうか?それは心の安らぎのためだと私は思います。
治療は、お医者さんに任せるのが一番であることは頭では理解していても、ただじっと何もしないで任せているのはどうも不安で仕方がないからお守りでも買っておこうか。そして、いざ病気が治ってみると医学の力では治って当たり前だと思っているから、最後の一押しとしてこのお守りが効いたんだなんて自分を納得させるのです。このとき、お守りと治療の間になにか因果関係があるでしょうか?
あるとすれば、医者の言うことにただ従うのは不安だからと必要以上に診療を受けることを抑えた、医者の言うことにただ従っているわけではなく自分で考えてお守りを買ったから後は医者い任せようと考えて医者に素直に従うことができたということかと思います。
つまり、お守りでもお祈りでも病気は治せませんが、病気で不安だからと言って自分の心をすり減らすことを抑えることはできます。この。「自分の心をすり減らすことを抑える」=「心の安らぎ」であり、宗教の役割だと思います。冒頭で紹介したアナウンサーの方も「裸は見せられてもカラコンを外した姿は見せられない」とおっしゃっていました。彼女にとってはカラコンがあることで、自分に自信がもてるもしくは普段の自分とは違う特別な自分がカメラの前にいるという自己暗示のような心境に達することができ「心の安らぎ」を得られているのではないかと考えたのです。
ここから何が言えるかと考えると、私が言う似非宗教は仏教やその他どの宗教から見ても胡乱なものに見えるのだけど、そこにお金を払うことで信者が心が安らいで自分の問題に立ち向かえるようになっているのであれば、宗教としての役割は果たしているということなのです。自己矛盾に陥っているように聞こえると思いますが、似非宗教だからと言ってその存在を簡単に排除はできないということです。ただし、その似非宗教の教祖が本当に信者の幸せを願わず、私腹を肥やすために、名誉欲を満たすために金集めをしているなら離れたほうが賢明だとは思いますが。
このように験担ぎのようなことをするとき、そこには宗教があります。日本人は宗教と聞くとどうしても危険物扱いしたくなります。イスラム教徒が聖地に向かって日に何度も礼をささげることを必要以上に奇異な目で見たがりますが、日本人だって、たかが一週間しかない祭りのために何カ月も必死にお囃子や踊りを練習して、山車をつくってと、宗教的儀礼に積極的に関与する心をもっているのです。
「健全な宗教を自分の中にもつこと。」これが幸せになるための第一歩ではないかと思います。別に何教である必要はありません。信者がたくさんいる必要もありません。ただ、自分がこれがあるから心を落ち着けて目の前の課題克服に集中できるというものをもつことが大事だと思います。そして次に大切なことは他の人の宗教を傷つけず尊敬する心を持つことだと思います。その大切さを気づかせてくれる僧侶の松山さんのお言葉を紹介します。