そもそも幸せとは? | 幸福探求における一つの議論

幸福探求における一つの議論

幸せに生きるために何ができるか色んな本を読んで考えたことを伝えたいと思います。ぜひあなたの考えも教えてください。

「そもそも」ってそもそもどういう意味ですか?と、国会で少し盛り上がったようですが、言葉遊びしてないで、中身の議論が必要なのではないんでしょうか?言葉にどういう意味が込められているかはコミュニケーションをとる上で共通認識されているべき重要な前提条件であるだろうけれども、どういう意味で使ったかが大切であって、議論をする中では意味を広めにとったり、どういう意味でその言葉を使ったか確認したりすれば良く、それこそがコミュニケーションではないかと感じるのは私だけなのでしょうか。

 

ということで、今回はこのブログを始めるきっかけにもなった、そもそもの幸せとは?というところを考えたいと思います。最初にお伝えしたいのは以降基本的には仏教的観点からの幸福の話になります。さらに言えば日本で多くの人が仏教に抱く、お寺にいったり、お葬式で触れるような大乗仏教の話ではなく、上座部仏教に根付いた話になります。とはいえ、私もまだまだ勉強中で、何も偉そうなことは言えないのですが、皆さんにお伝えする中で考えを深めていければなと思います。

 

そもそも、私が仏教に興味をもつきっかけになったのは、大学時代に先輩から『ブッタとシッタカブッタ』を借りたことでした。こう書いてしまうとその後怪しいセミナーに連れていかれて。。。なんて展開が予想されますが、そんなこともなく、この本のおかげで非常に救われた思いをしたことを今でも覚えています。この本を借りた時の私は、田舎から上京して、何をするにも不安でいっぱいでした。田舎の高校で自由も遊ぶ場所もなかった環境から、いきなり東京に出て、何時まで遊んでも、勉強しても自分の自由になったからといって、「あぁ。こんな幸せがあったなんて」となるような人間ではなかったのです。逆に「自由になったところで、何をすればいいのかわからない。周りはみんな楽しそうにしているけれど、自分は何をすればいいのだろう?」と、不安になってしまったのです。自分の価値観に合わない人や自由に遊び歩いている人間を血眼になって探しては批判することで、かろうじて「自分より下がいる。自分はまだ大丈夫」という自尊心を保っていたように思います。

 

こんなことを続けている内に、ついに私は世の中の人間を好きな人と嫌いな人とに分けて付き合いはじめ、友人からは「子供の好き嫌いみたいな人間関係をしている」とまで言われるようになったのです。そんなときにたまたま読んだこの本には人の心のクセのようなもののヒントがたくさん書かれていました。

 

「あなたが嫌いな人にも一人位は親しく話をする人がいる。とすれば必ずその人にはいい面がある。」

「験が悪いと今までの慣習から考えてしまうのは人間の悪い癖で、何も因果関係がないことをむやみに怖がるべきではない」

などなど、当時の私が欲していた教えがたくさんありました。

ちなみに今はもう少し勉強が進んで、「幸せになるために教団にお布施をという仏教団体は似非仏教」であるとか、貪瞋痴の三毒の話とか、それこそ言葉を超えた概念の仏教の話であるとか色々とあるのですが、その辺の話はまた今度にしたいと思います。ひとまず、私が一番大切にしている仏教から学んだことは、「幸せになりたければ、まっとうな努力をする必要がある」というものです。この辺の話も長くなるので、これから少しずつ考えていければなと思います。