故・人生幸朗のボヤキ漫才は、昭和のあの時代にしか成立し得なかった笑いかも、などとしみじみ考えてしまう今日この頃です。タレント議員も増えていたけれど、今ほど素人ばかりの議会ではなかったし、舵取りも船長も、ボンボンではなく、偉い人はそれなりに(癖もあったけど)エラかった、ですな。

キングレコード
上方漫才まつり <昭和編> 第1集
文京区の「目白御殿」の緑を残すかどうかで今問題になってる、田中角栄は、ロッキード事件で「きっちり」失脚しました。なんだかんだいいながら、それなりの天寿をまっとうしたんだから、偉いものです。好き嫌いでいえば、半々のところですが、傑物には違いなかった。
・・・相続税物納でなされた邸宅(跡)は、公園にもするけれども駐車場にもするのだそうで・・・・。っていうか、卵か鶏かだけど、今のこの時代に駐車スペース増やして、より車を招き寄せてどうする、文京区。そりゃ駐車場にすれば収入は上がるけどな(苦笑)。

今、いろんなゆがみが噴出して、また密告製みたいなのも助長される傾向にあって、官公庁や大手企業の不祥事がどっかんこ、と晒されてきてますな。
拝金主義・・・というか、まちがった「金本位制」が、たしかに存在してます。

官僚の、上のほうの文系な官僚の人は、はっきしいって今は、専門的な技術等について、自分では判断できません。各分野が専門化・細分化していることと、最近ちょこちょこ法務省が法律改正のときの関連法令の条文の引き間違いのポカミス(ニュースにもならんね、直近は)にも観られるように、そうした細かい条文をいちいちインデックスだけでも自分の内部に作っている人が減っている所為でもあります。なにかあるなら「専門家に聞け!」と。

たとえば、年金問題でも、納付していたはずの期間の記録が官にない場合、「第三者機関によって納付していたという主張に合理性が認められれば」てなことを、偉い人がいってました。しかし、その第三者が適正な判断をするかどうかは、だれが判断するのでしょう。
でもって今、各地ににわかで設けられている「年金相談窓口」で、対応している(といっても、実際は抗議の電話に平身低頭の応対をしているだけ、と聞きます)のも、派遣会社経由やなんかで雇われた「専門家」だったりするのです。
実際に「そのころ」の事務をしていた人たちは、悠々の年金生活をしているかな。今、役人をしている連中の大半の意識は「俺がやった時代ではないことで、何故今俺らが叩かれなきゃイカンのだ」といったところでしょう。しかし、役人とは、私生活でない仕事でしている分は、それが俸給分の仕事です。(もう亡くなられたかと思いますが、親父の同級生が当時の文部次官に就任してはじめての仕事が、教科書問題で中国に謝罪に行くことだったそうで。・・・管理人の歳が判るよ。)

責任を取る道も余計な援護射撃で断たれた大臣の方は、どうしようもなくて先般縊死されましたね。(そういう解釈の『セキニン』もあり、となると・・・・もう打つ手はないですな。)

自分自身で処理・思考や難しい過程をこなすのを止めて外注に出すのは、限りある時間と自前の人と金を節約するには手っ取り早いですが、うっかりすると「自分自身」がどんどんバカになっていくので注意が必要です。

余談ですが、小学生の頃、テストとか出もっといい成績が取りたくて、カンニングペーパーを作ったことがあります。が、自前で「カンニングペーパーを作る」という作業をするとそれで、カンニングの必要はなくなる、ということにすぐ気が付きました。細かい字でちまちまカンニングの準備をするより、でっかい字で思う存分ノートのまとめ直しをした方が効率いいし、正々堂々としていいです。

ええと、間違った「金本位制」の話をしようとしてたんでしたね(汗)。
じゃあ、専門/細分化されたことは自分で判断できない「うえのひと」は、どうやって「だれか」の働きや業績をはかり、判断するのか、です。

「うごかした予算/ゼニの額」、これです。

裏帳簿があったりすることもありますが、ぴしっと「数値」で出るからです。なんて客観的なんでしょう。しかし既に数字にあがったものの大きさ比べなら、小学生でもできるんじゃないでしょうか。もっともぶって、文字通りに馬齢を重ねたニンゲンのする仕事ではないでしょう。
そして、なにか問題があったとしても、明らかになる頃、当該判断を下した当事者は、役人の場合は定年でもう仕事してません(ry

ということで、役人上がりの政治家には、責任の観念は希薄だった感じはします。それでも、嘘でも公務員になるには、公務員試験も受けなきゃなりませんし、よっぽどの田舎でもなきゃそこで上のほうにはいけませんから、バカであっても阿呆ではありません。

高校までの教師なるには試験を通らないとなれませんが、大学の先生には資格試験等はありません。学問の自由、といったこととそこでなされる教育の内容と性質を考えると、不思議なように思えて、不思議ではありません(ビミョーに納得はいきませんが)。
年月を経れば、またそれなりの味や見識を発揮してくる人もいますが、単に「大学の先生」というだけでは・・・ほんと、ピンキリ。

なんか、今日はホントにボヤくだけになってもうたわ(いつもその傾向はあるけど)。

「責任者、出て来い!」・・・・のセリフには、今年でしたか、亡くなられた生恵幸子さんが「そんなこというて、ほんまに(責任者=当時だったら偉い人)が出てきたらどうすんの!」と突っ込み、ラストは「・・・・謝ったらシマイや!」と落とすのでしたが・・・今は、そう言われて出てきた人が、感情のこもってないセリフで先に謝ってくれます。
彼らは「そういわれたから、出てきた人」なのであって、自分のことを「責任の当事者」だと自覚していないのですから、「責任者」ではありません。

「笑い」も、時代で変容しているなぁと、これ書きながらしみじみしました。あと、地域/地方ごとの感じ方の温度差もあるかと思います。管理人はこてこてに大阪人でひねくれてますので(しかし京都人には負けます)、こんなんです。

大学の先生と一緒で、国会議員も、日本人なら年齢制限のほかに資格試験とかは不要です。学歴も、御存知の通りさほど重要じゃありません。

が、石の中にも、希に玉が混じってるのが、未練といえば未練・・・ですな、有権者としちゃぁ。