僕は、プロレスが好きではなかった。

いや、好きではないというより、興味がなかった。

深夜にテレビでやってるプロレスを見ても

何が面白いんだろう?としか思えなかった。


大学3年になった春、同じクラスに友達ができた。

「学生プロレスをやってます」

彼は自己紹介のときにそう言っていた。

一見、彼はプロレスラーというよりも

本当にどこにでもいそうな

シャイで口数の少ない、普通の青年だった。


「プロレスって、八百長なんでしょ?」

ある日、雑談の中で僕は彼にたずねてみた。

彼はただ笑うだけで、答えようとしなかった。

「でも、プロレスってショーだから面白いんだよね」

クラスの中の別の友達が、続けてそう言った。

やはり彼はニコニコしながら、ついに何も言わなかった。


春から夏に変わろうとしているある日の昼休み、

僕は大学の構内にある広場に向かっていた。

特に用事があったわけではなかったが、

なんとなく散歩したい気分だったのだ。

すると、広場には3~400人の人だかりができていた。

足を止めて人だかりの中心を見ると、

そこにはリングが立っていた。

(ああ、プロレスか。そういえば彼が1ヶ月に一度くらい

昼休みに試合をしてるって言ってたな)

僕は、人だかりの中に入っていった。

そしてリングの中を見た僕は、ぎょっとした。

彼が、血まみれになった姿でリング上で大の字になっていたのだ。

それも鼻血なんて生易しいものじゃない、

顔面全体がドロドロした血に染まっていた。

大の字の彼を見下すように立っているのは

やたらごつい、ラグビーでもやってそうな体格のマスクマン。

マスクマンは彼を一瞥すると、コーナーの上に登りはじめた。

そして、コーナーの一番上から観客にアピールしたと思った次の瞬間、

大の字になっている彼に向かって全体重を乗せるように飛び掛った。

『ダイビングボディープレスだ!』実況アナウンサーが絶叫する。

(よけろ!)

心の中で、僕は叫んでいた。

しかし、むなしくもマスクマンの巨体は、

血まみれの彼の体の上に容赦なく降りかかっていった。

レフェリーがカウントを取る体勢に入る。

いくらプロレスに興味がない僕でも、

このままカウントが3つ入ったら彼が負けてしまうという

基本ルールくらいは知っている。

1・2・・・

(もうだめだ!)

僕だけでなく、そこにいた誰もがそう思ったであろう。

しかし彼は血まみれの体を躍動させていた。

カウント3は許さなかったのである。

そして彼は、ムクリと起き上がった。

その顔は、あの時のように笑ってはいなかった。

僕は、その時彼に言った言葉を思い出していた。


「プロレスって、八百長なんでしょ?」


僕は、恥ずかしくなった。

僕は、闘っていない。

僕は、何かを悟ったような口ぶりで「八百長だ」と言った。

でも僕は、闘っていないのだ。

血を流してもいないし、技をくらってもいない。

ただ見ていただけ。

いや、今日偶然ここを通りかからなければ

見ることすらしていなかっただろう。

闘っていない僕が、闘っている彼を

知ったかぶった一言で片付けようとしたのである。

こんな恥ずかしいことはない。

僕の中に、中島みゆきの歌が流れた。


ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が 笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながら のぼってゆけ

気づくと僕は泣いていた。

感動と、悔しさで。


次の日、ゼミで彼を見たとき、彼は額にバンソウコウをしていた。

昨日の試合を見たことを彼に伝えると、

彼はバツが悪そうに額をさすりはじめた。

「いやぁ、何だかんだでプロレスが好きだからね」

そう言った彼は、やはりあの日のようにニコニコ笑っていた。