抑々信仰の根本は、合理の二字にある事を忘れてはならない。如何に信仰上もっともらしい説を立てても、道理に合わないとしたら真の信仰とはいえないのである。この意味において神様というものは、理屈に合えば何程でもご守護があるが、理屈に合わなければ如何に拝むとてもご守護はないのである。この点が最も肝心であって、再浄化の意味もこれに外ならないのである。  さんざん医療を始めあらゆる療法を受けても治らない病人などが、浄霊によって忽ち治ったので喜んで入信することとなる。そして暫くしてから再浄化が起こる人がよくあるが、これはどういうわけかというと、勿論理屈に合っていないからである。即ち医者から見放された病気が、神様のおかげで治ったとしたら、神様から無い命を頂いたわけであるから、どれほど感謝してもし切れないほどであるに拘らず、中にはその当時の感激もいつか忘れて、もはや治った以上それで済んだと思ってしまう。そうなると信仰前と同じでないまでも、感心できない生活態度となってしまうが、それで何事もなければ万々歳だが、どっこいそうはゆかない。というのは長い間さんざん薬毒を注ぎ込まれているため、健康回復に伴い、溜まりに溜まっていた薬毒の排除作用が起こる。これが再浄化である。しかしいつもいう通り右は体的面だけの事だが、実は霊的面の方に体的以上重要な問題があるのである。しかしこの事については今まで少しも知らしていなかったが、もはやそれが許されない時となったので、その根本を書くのである。  では、何故今まで知らせなかったかというと、未信者や新しい信者などには誤解を招く恐れがあるからで、できるだけ言わないようにしていた。ところがだんだん浄化が強くなるにつれて再浄化の人も増える事になるから、ここにはっきりさせるのである。抑々世の中の事は一切相応の理によって働き、道理に合うようにできている。特に信仰にあってはそれが顕著である。かの釈尊の言われた生者必滅、会者定離とは、これを一言に喝破したものであり、因果律とか因果応報などもその意味に外ならない。  これによっても分る如く、死を覚悟し絶望的となった重病患者が全治したとしたら、何をおいても力の限り神様にご恩報じをするのが当然であり、これが合理であるに拘らず、忘れるとしたらおかげの取りっ放しであり、恩知らずも甚しいのである。この理を一層分かり易く言ってみると、例えば生命の価値を十とすれば、十の感謝ならプラスマイナスであるが、十以上であればその余分だけはプラスになり、神様はその何倍にも当たるお恵みを下さるものである。それと反対に感謝が五とすれば、差し引き五だけマイナスとなるから神様への借金となる。そこで一日も早くお返しすればいいが、それを怠るとすると利息がかさんで借金は増えてゆく。この点現界と少しも変わりはないので、これも相応の理である。そこで借金が溜まってある程度を越えると、神権裁判所から督促や差し押えが来る。これが再浄化であるから、それに気が付き心からお詫びをすると共に、元利合計お払いすれば助かるのは当然である。ところが中にはとんでもない考え違いを起こす人がある。それは信仰で治ったと思ったのはやはり一時的で、本当は治ったのではないとして迷い始める。そこへ周囲の者などが、それ見た事かと言わんばかりにしきりに医療を勧めるので、ついその気になって医者へ行く事になるが、もうこうなったらお終いで十人が十人悪化の一路を辿り、遂にあの世往きとなるのは常に経験するところである。ではそうなる原因は如何にあるかというと、霊界においては悪魔は人間の心の隙を狙いつめており、ちょっとでも油断があると忽ち憑依し、その人をわやにする。この点注意の上にも注意をしなければならないのである。  そうして感謝の誠を捧げる場合、仮に金銭にしても、多い少ないは問わない。分相応の最大限度であればいいのである。神様は何もかもご存知だから、無理をせずともお許しになると共に、その上一人でも多くの人を救い信者を作ればなおさら結構であって、要は実行である。そのように総てが理屈に叶えば、まず再浄化は起こらないはずで、たとえ起こっても軽く済み、命に関わるような事は決してないのである。話は違うが世間多くの宗教の中には、おかげを頂かないうちから、これだけ献金すれば助かるなどといって、お礼の先取りをする事があるが、これなどは欺瞞行為であるからご利益のあろうはずはない。全く取次先生の考えが誤っているからである。そこへゆくと我が神慈秀明会はご利益があってから分相応の感謝をすればいいので、至極合理的であるに拘らず、それを怠るとしたら全く人間の方が間違っており、お気付けを頂くのは当然である。それでも気が付かないから命まで召し上げられるので、何処までも不合理は赦されないのである。今一つ肝心な事は、神様が命を下さる御目的はその人をご神業に働かせるためであるから、それを覚って実行すれば健康はますますよくなり、幸福は何程でも恵まれるが、それを裏切るとしたら折角の救いを自分から拒否するわけである。