037 幽霊はあるか
昔から幽霊の有る無しについては、諸説粉々として今もって決定しないが、私は有りと断定する。何となれば実際有るからである。有るものを無いをは何人と雖も言えないであろう。かの釈尊の説いた地獄、極楽説も、ダンテの神曲における天国、地獄、煉獄も決して荒唐無稽な仮説ではない事を私は信ずるのである。そうして霊界とは如何なる所であるか、これを一言にして言えば、意志想念の世界である。それは肉体なる物的障碍がないから素晴しい自由がある。霊の意志によって如何なる所へでも飛行機よりも早く行ける。かの神道において、招霊の際「天翔り国駈りましまして、これの宮居に鎮りましませ」という言葉があるが、千里と雖も数分否数秒間にして到達するのである。但し霊の行動の遅速は、その階級によるのである。高級霊即ち神格を得た霊ほど速かで、最高級の神霊に至っては一秒の何万分の一よりも早く、一瞬にして如何なる遠距離へも達するが、最低級の霊は千里を走るに数十分を要するのである。それは低級霊ほど汚濁が多いから重いためである。 また霊は霊自体の想念によって伸縮自在である。一尺巾ぐらいの仏壇の中にも数百人の祖霊が居並ぶ事ができる。そういう場合、順序、段階、服装等は頗る厳格で、何れも相応の秩序が保たれている。勿論人間が心からの祭典は霊は非常に喜ばれるが、形式だけのものは余り喜ばれない。その場合仏教では戒名、神道においては、み鏡、石、文字、神籬等に憑依する。故に、祭典の場合は身分に応じ、できるだけ誠を込め、立派に執行すべきである。 昔から偶幽霊を見る人があるが、これら多くは死後短時日を経た霊である。新しい死霊は霊細胞が濃度であるから人の目に映ずるのである。かのキリストが復活昇天した姿を拝したものは相当あったという事は不思議ではなく、有り得べきはずである。ただキリストは天に向かって上昇したという事は高級霊であるからである。そうして死霊は年月を経るに従い浄化され希薄になるので、目に映じ難くなる。また幽霊は針のような穴からでも出入自在である。それは肉体なる邪魔物がないからで、かような点だけでみる時、自由主義者の理想郷のように思われるが、そうはゆかない。というのは霊界は厳然たる法則があって、自由が制限されるからである。また霊の面貌について一言述べるが、幽霊は絵にある如く死の刹那の形相であるが、これは時日を経ないからで、時日を経るに従って徐ろに変化するのである。それは想念の通りになる。例えば消極的、悲観的、孤独的の人は寂しく痩せ衰え孤影悄然たる姿であり、鬼畜の如き想念の持主は鬼の如く、悪魔的の人は悪魔の形相となり、醜悪なる想念は醜悪なる面貌となり、善美なる心の持主はその通りの容貌となるのである。現世においては肉体という外郭によって偽装ができるが、霊界は総てが赤裸々に現われるのである。そうして現われるまでにはだいたい一ヵ年以内とされている。ある有名な宗教家の著書にこういう事が書いてあった。それは「人間は死後霊が滅消してしまい、霊の存続や霊界などあるものではない。何故なれば、もしそうでありとすれば、昔から死んだ人の数は何億に上るか分らないから、霊界は満員になっていなかればならない」と言うのである。 この人などは仏教界の偉人でありながら、霊魂の伸縮自在を知らないのである。