043 霊憑りについて
霊憑りの危険な事は、常に私は注意しているに拘らず、今もって止めない人があるが、これは断然止めるべきである。それについて何故悪いかを詳しく説明してみるが、霊憑りの八、九割までは狐霊であって、狐霊の九割九分までは邪霊であるから、人を瞞す事など本能的であり、人間に悪い事をさせるのは何とも思わないどころか、寧ろ面白くて仕様がないのである。というわけで彼らの中でも高級な奴になると、憑依する場合何々神だとか、何々如来、菩薩、龍神などと言い、本人にもそう思わせると共に、人にも信じさせようとするので、ご本人もすっかりその気になってしまい、生神様扱いにされて多くの人から敬われ、贅沢三昧に耽るのがよくあり、これが狐霊の本性である。そうして狐霊中でも劫を経た奴になると、相当神通力をもっており、人間に憑依するやその人の思っている事は何でも分るから、それに合わせて色々なたくらみをする。例えばその人が神様のように人から尊敬されたいと思っていると、いつしか憑依してしまい、本人の思惑通りにとりかかる。自分はこれこれの立派な神の再来だとか、最も多いのは天照大神の御名を僭称することで、これは誰で知っているが、そうかと思うといとも巧妙に、この人はと思う人には自分との因縁を結びつけようとしたり、多少の奇跡も見せるので善男善女は一杯くってしまうのである。これは世間によくある話で、方々にある流行神などは皆この類で勿論こういうのはいっぱし腕のある狐霊で、世間の甘い人達はつい瞞されてしまう。また中には無暗矢鱈に金を欲しがる人があると、それを知る狐霊は、憑依するや悪知恵を働かせて、うまく金を掴めるようにするが、勿論手段を選ばず式で、たいていは罪を犯させ、一時はうまくゆくが結局は失敗してしまい、その筋のご厄介になる者さえよくある。また女を得たい人間には巧妙にその女に接近させ、女の関心を得るよう甘い言葉や手段を用い、時には暴力を振う事さえあるのだから危い話である。そのようにもともと動物霊であるから、善も悪もない。ただ人間を道具にして自由自在に躍らせればいいので他愛ないものである。このように狐の方が人間より一枚上になるから、万物の霊長様も情ない話で、これが分ったなら人間様も余り威張れたものではあるまい。その他狐霊の他、狸霊、龍神、悪質天狗等も憑って人間を誑かすが、その中でも邪悪の龍神が最も恐るべきものである。本来龍神なるものは、並々ならぬ強い力と、そうして知恵をもっているから、人間を自由にし、場合によっては人に傷害を与えたり、命をとる事など朝飯前である。昨年の事件の時なども、多くの龍神が活躍した事は以前も書いたが、そういう場合血も涙もない残虐極まるものである。しかも狐霊などとは違い、龍神は知能的で、悪知恵が働くから思想的にも人間を自由にする。何々主義などと言って悪質犯罪を平気でやらせ、社会に害毒を流すのも原因の多くはそれである。そこへゆくと狸霊や天狗の霊は大した事もないが、只天狗は霊力が強いのと、学問のあるのが多いので、彼らの中の野心家はそういう人間を掴まえて躍らせ、世間に名声を博し、出世をさせて大いに威張りたがる。そのようなわけで、天狗の霊憑りは昔から禅僧、学者、宗教の創立者などに多く、長続きする者は至って少ないのである。以上憑霊に関しての色々な事を書いたが、ここで充分知っておかねばならないのは、単に邪神をいっても個性的に悪い事をするのではない。その奥に邪神を操っている頭目があって、此奴こそ最も恐るべき存在である。この頭目の力にはたいていな神も歯が立たないくらいである。ところがこの邪神の頭目は陰に陽に絶えず我々の仕事を妨害している。特に本教は邪神にとっては一大脅威であるから、彼らの方でも頭目中の頭目が対抗しているので、これこそ正邪の大戦いである。 ところがここに注意すべき重要事がある。それは本教信者は自分はご守護が厚いから大丈夫だ、邪神など容易には憑れるものではないと安心しているその油断である。この考え方が隙を与える事になり、邪神は得たり賢しと憑依してしまう。然も小乗信仰者で熱心であればあるほど憑り易いから始末が悪い。いつも私は小乗信仰を戒めているのはそういうわけだからである。何しろ邪神が憑るや小乗善にもっともらしい理屈をつけて押し拡げ、巧く瞞すのでたいていな人はそれを善と信じ切って一生懸命になるのだが、何しろ根本が間違っている以上、やればやるほど結果がよくないから焦りが出る。そうなると人の忠告など耳へもはいらず、益々深みにはまってしまい、二進も三進もゆかなくなって失敗する人がよくあるが、こういう人も早いうち目が覚めればいいが、そうでないと何が何だか分らなくなってしまい、おかげを落とす事になるから、小乗善の如何に恐ろしいかが分るであろう。小乗善は大乗の悪なりと私が常に言うのはこの事である。またこの点一番よく分るのは小乗善の人は必ず常軌を逸する事で、これが奴らの狙いどころであるから、何事も常識眼に照らして判断すれば間違いないので、全く邪神の苦手は常識であるから、私は常に常識を重んぜよと言うのである。この例は世間に有りすぎるほど有る。よく奇矯な言動をよいとする信仰や、同様の主義思想、神憑り宗教などもその類であって、何れも問題を起こし、世間を騒がす事などよく見聞するところである。 そうして右の理は霊的にみてもよく分る。何しろ狐、狸等は動物霊であるから、人間より以下である。従ってこれを拝んでいると、四つ足の居所は地上であるから人間は地の下になり、霊界では畜生道に落ちているわけで、霊界の事は一切現界に映るから、その人は地獄に落ちているのである。世間よく稲荷の信者などは、必ずと言いたいほど不幸な運命に陥ってしまうのは、右の理によるからである。勿論霊憑りもそうであって、動物の入れ物になる以上、やはり畜生道に落ち、不運な境遇となってしまうのである。 しかしながら同じ狐霊でも、全部が全部悪いわけではない。稀にはよい狐もある。それらは改心した狐であって白狐である。白狐は何れも産土神の下僕となり、神のご用に勤しんでおり、なかなか役に立つものである。というのは狐は霊的には種々な特徴を有っており、悪もそうだが、善の場合もなかなか力があり、よい働きをするものである。しかし神憑りにも除外例がある。それは祖霊または正守護神が重要な事を人間に知らす場合、一時的に憑る事がある。これはほんの僅かの時間と必要だけの言葉で、決して余計な事は言わないものである。ここで序だから正か邪かの判別法を教えるが、神様に関係のある正しい言葉には無駄は決してない。物事の急所を簡単明瞭にお知らせならるものである。故に邪霊であれば必ず余計な事を喋りたがるもので、よくあるのべつ幕なし立て続けに喋るなどは、狐霊と思えば間違いない。しかしこういう場合もある。それは正守護神が言葉で知らせようとする場合、狐霊は人間に憑る事も、喋る事もうまいので、狐霊を使う事もあるが、そういう場合必要以外の事を喋り、地金を現わすから大いに注意すべきである。