奇跡とは、一言にして言えば有り得べからぎる事実がある場合をいうのであるが、実は有り得べからざるところに有るという事は、本当はないのである。だから有ると思うのは、それは誤解以外の何ものでもない。というと何だかややこしい話だが、その理由を左に書いてみよう。  右は有り得べからぎる音と、決めてしまっているその既成観念が既に錯覚なのである。何となれば、その観念こそは表面に現われた、即ち現象そのものだけを見て決めてしまうからである。勿論、現在までのものの考え方は、唯物的社会通念を通して見るのであるから、偶変わった事があると不思議に思えるのである。即ち、あるべきはずがないのに、まぎまぎと見る事実である。例えば高い崖から落ちた子供が何ともないとか、自転車へ自動車が衝突しても、怪我もなければ時には車が少しも破損しない事さえある。汽車へ乗り遅れたので次の汽車へ乗ると、前の汽車が脱線転覆したり衝突したりして、難を免れる。はいりかけた泥棒が浄霊で逃げてしまったり、盗まれたものが間もなく戻ったり、隣家まで焼けてきた火事が浄霊するや忽ち風向が変わって助かるというように、大なり小なり特別奇跡の多い事は本教信者の常に体験するところである。  右の如き種々な奇跡は、いったいどういうわけで起こるのであろうか、何処に原因が潜んでいるのであろうか、という事は誰もが大いに知りたいと思うであろうから、ここに書いてみるが、言うまでもなく奇跡の元は実は霊界にあるのである。しかし奇跡にも自力と他力があるから、まず自力の方から書いてみるが、私が常に言う如く、人間には霊衣と言って霊の衣がある。それは普通人には見えないが、身体の形の通り、白色の霧のようなものに被われている。勿論厚い薄いがあるが、これは魂の清濁によるので、魂の清いほど厚いのである。普通人はまず一、二寸くらいだが、有徳の人は二、三尺、神人となると無限大である。それに引き替え濁った身魂は霊衣が薄く貧弱である。  そうして災難を免れる場合、例えば自動事が人間に衝突しようとする刹那、自動車にも霊があるから、人間の霊衣が厚いと、突き当たる事ができないで横へ外れてしまうので助かる。  高い所から落ちた場合、霊衣が厚いと地や石の霊に打つかってもふんわり軽く当たるから怪我をしないし、また家にも霊があるから、その家の主人が有徳者であると家の霊衣が厚いから、火事の時など、火の霊はそれに遮られて燃え移らないのである。しかし稀には焼ける場合もない事もないが、それは焼ける必要があるからで、これは神様の経綸のためだが、滅多にはない。  次に他力の場合を書いてみよう。  抑々人間には、本、正、副の三つの守護神がある。この間係は以前書いた事があるから略すが、右のうちの正守護神とは、祖霊の中から選ばれた霊で、危急の場合助けたり、重要な事は夢で知らせたり、また特殊の使命を持つ者は神様(たいていは産土神)がお助けになることもある。例えば汽車が衝突しょうとする場合、神様はどんな遠くでもよく知られるから、一瞬にして汽車の霊を止めてしまう。その場合、何百、何千里でも、一秒の何万分の一の速さでその場所へ到着し救われるのである。  以上によってみても、奇跡なるものは、決して偶然やまぐれ当たりではなく、立派に理由があるのであるから、それが分ったなら、奇跡は不思議でも何でもない事になる。だから私などは奇跡があるのが普通で、奇跡がないと不思議に思うくらいである。  この例として、たまたま難問題に打つかって、解決がぐずぐずしていると、もう奇跡がありそうなものだと待っていると、間もなく奇跡が出て解決する事がよくある。これは信仰が深く、徳を積んだ人はそういう体験は数ある事と思う。従って人間は善を思い善を行ない、徳を積み、霊衣を厚くするよう心掛けていれば、不時災難など決してないのである。また霊衣の厚い人ほど、接すると何となく温味を感じ、慕わしい気持が起こる。よく人を惹きつけるというのはそういう人である。だからこういう人には自然多くの人が集まってくるもので、仕事もうまくゆき、発展するようになるのである。今一つの例を挙げてみるが、以前から、私が行き始めるとその家は必ず繁盛する。また私に接近する人は必ず発展し幸福になる。これは私の霊衣の幾分でも貰うからである。