霊界なるものは、実に霊妙不思議な存在であって、現世人の常識判断ではとうてい理解し難いものがある。それについて人間の想念が霊界に如何に反映するかを書いてみよう。  霊界は全く想念の世界である以上、無から有を生じ、有が無になり、変移極まりないものである。その例としてここに絵画彫刻等によって神仏の本尊が作られるとする。ところがその作者の人格にようて憑り給う神霊仏霊に自ら高下を生ずる。即ち作者の人格が然らしめるので、最も高い場合はそれに相応する高級神霊が降臨される。故に形は同一であっても、作者の人格が低い場合はそれに相応した代理神霊、または分神霊が憑られるのである。  今一つは、すべて礼拝の的であるご神体に対し礼拝者が誠をもって心から念願する場合、その神霊の威力、即ち光明は偉力を発揮するに反し、礼拝者の想念が形式だけで、心からの尊信の念がない場合、神霊の威力はそれだけ減殺されるのである。また礼拝者が多数あればあるほど、神威いよいよ赫々たる光明を増すのである。  よく昔から「鰯の頭も信心から」と言うが、これはどういうわけかというと、なんら資格もない下根の者がご神体を作り、巧妙なる手段をもって宣伝をすると、一時は相当多数の参拝者が礼拝するとすれば、参拝者の想念によって霊界に神仏の形が作られるのである。従って相当の偉力を発揮し、利益も与えらるるので、これは全く人間の想念の作為で、実に不思議というより外はない。しかしこれらはある期間は繁盛するが、それは本物ではない。一時的架空のものであるから、いっかは消滅するのである。こういう例も少なからずある事は誰もが知る通りである。所謂流行神というのはこの種のものである。  以上は神霊についてであるが、その反対である悪魔についても解説してみよう。  世の中に最も多いこと、それは自己欲望のため人に迷惑をかけ、人を苦しめ、不幸に陥れる悪徳者の余りに多い事である。無論これらは我々が常にいうところの見えざるものを信じないという、唯物思想の産物ではあるが、これを霊的にみれば、奇々怪々、実に恐ろしいのである。  人を苦しめる以上、その被害者は必ず怨んだり憎んだり仇を討とうとする。その想念は霊線を通じて相手に打つかってくる。それを霊的にみると、憤怒や恨みの形相物凄く、仮に目に見えるとしたら、如何なる悪人と錐も一たまりもなく往生するのである。ところが被害者が一人や二人どころではなく、何千何万の人数となると、多数の想念が集合し、いよいよ恐ろしい怪奇極まる妖怪ができ、種々の形となってその悪人を取り巻き、滅ぼそうとするから堪らない。如何に英雄豪傑と錐も、遂には悲惨なる運命の下に滅亡するより外ないのである。これは古今を通じて歴史上の大人物をみれば例外なく右の如き運命を辿っている。  その他悪徳政治家の悲劇、成金の没落は勿論、多数の婦女を迷わせ翻弄した輩や、悪質の高利貸し等の末路をみればよく分るのである。  右に引き替え多くの善根を施し、多数者から感謝感激の想念を受くるとすれば、その想念は光となって、その人を囲繞するから、いよいよ有徳者となり、悪霊邪神もその光に恐れて近づき得ない以上、大いなる幸福者となるのである。よく神仏の像などにある円光なども、それを表徴したものである。  以上によってみても人間の想念は、如何に重要視すべきものであるかが知らるるのである。