本教の信者は必ず大黒様をまつるが、観音様とどういう関係があるかと聞かれるが、これはもっともな話で、今日までそういうやり方は世間になかったからである。私が大黒様をまつり始めたのはこういうわけがあった。確か昭和八年だと思う。数ヵ月赤字が続いた事があったので、些か心細かったころ、時々私の所へ来るある銀行員が古い大黒様を持っているが、さし上げたいと言うから、私も快く貰って、観音様のお掛軸の前へ安置したところ、その月から赤字がなくなって、だんだん金がはいるようになった。そこで私もなるほど大黒様は確かに福の神だというわけで、それから大黒様を人に頼んだりしてできるだけ集めた。一時は五十幾つ集まったが、観音会が生まれて間もなく、ある日部下の一人が麻布高樹町のある道具屋に等身大の素晴しい大黒様があるとの報告で、早速私は見に行ったところ、なるほど時代といい作といい実にいい。売るかと聞いたところ、これは売物ではない、自分が信仰しているのだから勘弁してくれろと言うのでやむなく帰った。それが十二月の半頃であった。すると面自い事には、大晦日の日、道具屋から電話がかかった。「先日の大黒様をお譲りしてもいいが、思し召しがあれば直ぐにお届けする」と言うので私は欣喜雀躍した。その晩自動車で届けられ、早速ご神前へ安置した。その時の道具屋の話が面白い。「先生がご覧になった数日後夢をみた。それは大黒様が紫雲に乗って自分の家からお出かけになったので、目が覚めてから、これはもう自分との縁は切れたものと思ったが、まだなかなか思い切れなかった。ところが今日の大晦日はどうしても追っつかないので、手放す事になったのである」と言う。私は「いくらか」と聞くと、「そういうわけだからいくらとは言えない。包金で結構だ」と言うので、私は物価の安いその頃であったから三百円包んでやったのである。ところが彼は帰りがけに哀惜の情禁じ難いとみえ、大黒様にすがりついて、ぽろぽろ涙をこぼしていた。その事あって以来収入が俄然として増してきたという事実は、全く大黒様のおかげとしか思えないのである。お名前は『みろく大黒天』と付けた。麹町時代、玉川時代来た人はよく知っているはずである。