「ホスピタリティ」という言葉は、日常生活でそんなに耳にするものではないと思う。
Yさんの発言でその言葉を聞いた際も、初めて聞く言葉ではないにしろ、僕は恥ずかしながら正確な意味を知らなかった。
日本語に訳せば、「おもてなし」という言葉になるのだろうか。ただし、それだけでは少し意味が狭くなってしまう気がする。
たしかに、お客様に対するおもてなしもホスピタリティだが、より広く、困っている人への配慮の気持ちから、さらには他人に対する接し方全般まで含めてホスピタリティだというのが、現在の僕の考え方だ。
道に迷っている人がいれば、どうしましたか、と声を掛ける。道に荷物を落としてしまった人がいれば、拾うのを手伝う。そんな一つ一つの振る舞い、他者への共感が、ホスピタリティなのだ。
だとすれば、僕が今回行ってきたことも、まさに「ホスピタリティ」だったのではないだろうか。
Yさんに関する記憶から、唐突な啓示としてこのことに思いが至り、僕は呟いていた。
「そうだよ・・・これもホスピタリティだったんだ・・・」
それは、震えがくるような感覚だった。ずっと探していた答えが、突然、目の前に現れたのだ。
ボランティア活動などと言いながら、自分の取組に対して感ずる違和感。誰かのために、とか、喜んでもらうために、とかではなく、もっと違うところから湧き上がってくる切迫感。
取組の幅を広げたり、もっと役立つことをしたりしたく思うでもなく、ただ自分のできることがしたかった。なぜなら、これは僕なりの、ホスピタリティの発露だったのだから。
善意を押し付けたり、アピールすることへの嫌悪感。報道で取り上げられることへの違和感。それらもすべて、これがホスピタリティであったと気付けば、納得がゆく。
そう。僕は特別なことがしたかったわけではなく、ただ、ホスピタリティをもって、人と接したかっただけなのだ。
考えてみれば、当たり前のことかもしれない。その取組こそを、「ボランティア」と称するのかもしれない。ただ僕は、これまで自分なりの答えを持たず、そのために悔み、戸惑い、後悔してばかりいた。
だけど今、やっと気付いた。すべては自分なりの、ホスピタリティだったのだということに。
そして、そのことに気が付いてしまえば、もう迷うことはない。
参加者がいなくても、喜んでもらえなくても、必要があるかどうかすら大きな問題ではない。僕は僕なりに心を示し、僕を必要とする人がいれば、それに応えたいだけなのだから。
ずいぶん長い時間をかけて、この答えに辿り着いたものだと思う。でも、自分なりの答えを手にできただけ、僕は幸いだったのだろうとも思う。自分のしてきたことを、ようやく正面から捉えることができるのだ。
このことに気付いてから後の帰路、従前までの気分から一新し、僕の足取りはひどく軽かった。
(4月6日につづく)