翌日の午後。

神田の裏手、古いビルの二階。

翠光堂の看板は、色が褪せていた。


槙原浩司は、痩せた男だった。

四十二歳。指が、香木の油で黒く染まっていた。


「織田探偵事務所の。……桐生庵の貼り紙、見ました」


「そうか」


「俺は、あんたのやり方に、賛成です。

全部、明かすべきだ。この業界は、嘘でできている」


信長は、椅子に座った。部屋の棚には、

香木が並んでいた。どれも、小さな付箋が貼ってある。

仕入れの日付、産地、値段。


「槙原。大庭どのの木は、どこにある」


槙原は、しばらく黙って、それから、奥の桐箱を持ってきた。蓋を開けた。

中に、木があった。黒く、艶のある、掌に収まるほどの一木。


「本物です。伽羅だ。……あんた、香りを、嗅いでみますか」


「嗅ぐ」


槙原は、木の端を、小さな刀で薄く削った。銀の香炉に載せ、下から炭火を近づけた。匂いが、部屋に満ちた。甘く、重く、そしてどこか、古い寺の廊下のような匂いがした。


信長は、目を閉じた。四百年、この街の匂いを嗅いできた男が、久しぶりに、あの時代の匂いを嗅いだ。


本能寺の隣にあった、東大寺の、

蘭奢待の匂いを。


「……いい木だ」


「ええ。三千万は下りません。箱書きが

本物なら、五千万」


「では、なぜ、奪った」


槙原は、下を向いた。


「あの女が、本物かどうか訊いたからです。俺は、『贋物だ』と答えた。

……答えた瞬間、俺は、嘘をつく側になった。 でも、あんたの貼り紙を見て、思ったんです。

俺も、明かしたほうがいいんじゃないかと。

そうすれば、俺も、あんたと同じ側に立てる」


信長は、立ち上がった。


「槙原。お主は、明かすことが、赦しになると思っている。 それは、違う」


「……では、どうすれば」


「順番だ」


信長は、箱を閉じた。


「返せ。 まず、返す。次に、そなたの鑑定の誤りを、そなたの店の前に貼れ。理由を書け。『私は、かつて騙された。ゆえに、すべてを疑う癖がついた』と。――そなたの傷を、公示しろ。」


槙原は、顔を上げた。


「……そんなことをしたら、俺は、終わりだ」


「終わるか」


信長は、静かに笑った。


「わしは、一度、炎の中で終わった男だ。終わってから、始めた。そなたも、始めろ。」