その日の夕刻、事務所に、明智光秀が来た。名刺の裏に「人、その話を聞く」とだけ書いた紙を、テーブルに置いて。
「殿。翠光堂の槙原という男に、会ってきました」
「早いな」
「私は、あなたの公示を手伝う気はありません。ですが、人の話を聞くのは、私の役目です」
信長は、腕を組んだ。
乱が、光秀の前に茶を置いた。
光秀の報告は、静かだった。
「槙原は、四十二歳。翠光堂は、彼の父の代から続く店ですが、十年前に一度、倒産寸前になりました。そのときに、彼は自分が騙されたのです。仕入れ先の業者に、偽の伽羅を、本物として掴まされた。その借金で、父は亡くなりました」
「……なるほど」
「彼は、それから、香木を『疑う』人間になりました。どんな木も、まず贋物と見る。彼の鑑定眼は、傷から生まれている。」
信長は、低く唸った。
「ゆえに、あの男は、大庭どのの木も、
贋物と断じたのか」
「いいえ、殿」
光秀は、茶を一口啜った。
「槙原は、あの木が本物だと、最初から分かっていました。」
部屋の空気が、止まった。
「では、なぜ」
「彼は、こう言いました。『あの木を、
あの女の手に残せば、いずれ専門の業者が寄ってきて、もっとひどい値で奪う。私が引き取れば、少なくとも、嘘はつかないで済む』と。……彼は、自分を、守り手だと思っているのです」
信長は、立ち上がった。
「守り手が、なぜ、黙って奪う。 それでは、賊と変わらぬ」
「殿。彼は、あなたの公示を知っていました。桐生庵の貼り紙を、見ていました。だから、私にこう訊いたのです。『あの蕎麦屋のように、全部を公開すれば、俺は許されるのか』と」
信長は、黙った。