「香木を、騙し取られました」
依頼人は、七十二歳の女だった。
大庭澄江。背筋がまっすぐで、茶を両手で持つ所作が、きれいな人だった。
「夫が、去年の秋に亡くなりました。宗一郎といいます。香料の会社に勤めておりましたが、趣味で香道をやっておりました。遺品を整理しておりましたら、木が一本、桐の箱に入っておりまして」
箱には、こう書いてあった。
『伽羅 一木 宗匠鑑』
「夫は、これを自慢にしておりました。値打ちがあるとか、ないとかではなくて……夜、これを削って、部屋で焚くのです。私は、その匂いで、夫が帰ってきたのを覚えています」
信長は、茶を置いた。
「で、そなたは、それを誰かに見せた」
「はい。片づけを手伝いに来た業者さんに。
『翠光堂』という、骨董と香木を扱うお店です。無料で鑑定します、と言われまして」
「なんと言われた」
「『これは、贋物です』と。『木は偽の沈香で、箱書きも後世のもの。値段はつきませんが、うちで処分いたします』と。……私、その言葉を、信じました」
大庭は、指を組んだ。
「あの木を、その日のうちに、持って行かれました」
森乱が、黙って茶を淹し直した。信長は、畳の上の資料を一枚取った。
翠光堂の名刺。槙原浩司、とある。
「大庭どの。ひとつ、訊く。そなたは、その木を取り返したいのか。それとも、夫の言葉を取り返したいのか」
大庭は、初めて泣いた。声を出さずに、
泣いた。
「……夫は、最後に、あの箱を私に渡して、こう言ったのです。『これは、俺の来歴だ』と」
信長は、しばらく天井を見ていた。
それから、静かに言った。
「……そなたの夫は、いい言葉を残した」