道は、老ノ坂を越えた。
私は亀山から山陰道を東へ、
老ノ坂を越え、沓掛に出た。
そこで隊を合わせ、さらに東へ進んだ。
先鋒は、私の最も信頼する重臣・明智秀満に、唐櫃越の道を取らせた。
徹夜で二十三キロ。
鎧を着て、松明を消し、夜道を二十三キロ
足の裏が破れた者もいた。
眠気で隊列から遅れる者もいた。
私は、その一人ひとりを数えながら進んだ。
戦の前に、私はいつも数を数える。
数えることで、私の手が震えないようにするためだ。
桂川の畔に着いたのは、夜も明けかけた頃である。三つの隊が、そこで合流した。
後世の物語は、私がここで叫んだと言う。
「敵は本能寺にあり」
あの言葉は、私のものではない。
同時代の史料には、その言葉は残っていない。私の口から出たという記録は、どこにもない。あれは後世の者が、私の沈黙を埋めるために作った言葉である 。
では、私はあのとき何を言ったのか。
後年の軍記『川角太閤記』は、桂川に集まった軍勢に、私が実務の司令を出したと書く。
馬の沓を履き替えよ、
徒歩の者は新しい草鞋に替えよ。
あの朝、私が叫んだのは、沓の話だった。
敵はどこか、とは言わなかった。
言えば、隊の中に動揺が生まれる。
私は、言葉の代わりに、沓を替えさせた。
足を整えさせた。それだけで、兵は東へ向かうことを理解した。
戦場の言葉とは、そういうものだ。
名台詞ではなく、沓の紐の結び方である。
桂川の水音の前で、私はただ、東の空を見ていた。あの瞬間、私の胸にあったのは、決意でも、憎しみでも、悲しみでもなかった。
あったのは、計算である。
本能寺の寺域は、東西百五十メートル、
南北三百メートル 。
堀川四条の近く。門は幾つあるか。
逃げ道はどちらか。殿の供回りは何人か。
信忠は妙覚寺にいる。
私は、それを数えていた。
数えることで、私の手が震えないようにしていた。
そして、その計算の下に、もう一人の私がいた。その私が何を思っていたかは、
四百年、誰にも言っていない。
