六月一日の夜、私は亀山城を出た。

『明智光秀の軍勢一万三千、午後十時頃、居城の亀山城を出発』


軍議の席で、私は家臣に告げた。

これから向かうのは備中ではない、東である、と。家臣の何人かは、顔色を変えた。当然である。私は信長から、西国へ向かう軍を率いよと命じられていた。


その私が、進路を東に取ろうとしている。命令違反は、それだけで死に値した。

私は、あの席の家臣の顔を、いまも思い出せる。

一人は唇を噛み、一人は目を伏せ、

一人は私をまっすぐ見ていた。


筆頭家老の斎藤利三は、最後まで私の眼を見ていた。

彼は、長宗我部との取次を担っていた男である。信長の四国政策が変じたとき、その立場が危うくなった、とも伝わる 。彼がなぜ私に従ったのかは、彼自身が語らぬまま、山崎で果てた。


(私は、家臣に「信長を討つ」と告げた。告げた者の心が割れることも、最初から計算に入れていた。逃げる者が出ることを想定し、その逃げ道まで塞いでおいた、と伝える記録もある。


私は、そういう男である。この街の言葉で言えば、私は「手続き」を踏んだのだ。

あの夜も、私は手続きを踏んだ。誰にも見えない場所で、誰にも記録されない手続きを。)



軍は、暗い道を進んだ。

篝火を絞り、沓の音を殺し、馬の口を縛った。


私の後ろには、一万三千の息があった。

あの重さを、私は生涯、忘れない。