その日の夕刻、桐生庵の暖簾を、二人の男がくぐった。一人は信長。もう一人は――。
信長が店内に入った瞬間、空気が変わったことを、彼は肌で知った。
戦場で三十年、彼が最も敏感だったのは、背後に立つ者の気配である。振り返った。
男は、桐生庵の客席の隅に、静かに座っていた。四十がらみに見える。薄いグレーのシャツ。細い縁の眼鏡。茶を、両手で持っている。所作が、あまりに整っていた。この世界の人間の所作ではない。男は茶碗を置き、立ち上がった。そして、深く頭を下げた。
「……殿」
信長は答えなかった。しばらく、店内の音だけが鳴っていた。厨房から、父が蕎麦を茹でる湯の音。七海が、息を止めている。
信長はようやく口を開いた。
「その呼び名を、この街で使うな」
男は顔を上げた。笑ってはいなかった。泣いてもいなかった。
「では、なんと」
「……『織田殿』でよい。明智殿、わしが、そなたの姓を呼ぶのは、あの夜以来だ」
男は、少しだけ目を細めた。それが、この男の笑い方であることを、信長は覚えていた。明智光秀。天正十年六月二日、本能寺を囲んだ男。そして今、令和の東京で、同じ屋根の下に座っている。