事務所を開けて四十日。
夏が近づいていた。ガラス扉を叩いたのは、まだ二十歳になったばかりらしい娘だった。
色の褪せたTシャツに、洗いすぎて毛羽立ったデニム。目は赤いが、泣いてはいない。泣くまいとしている顔を、信長は一瞬で見抜いた。
「桐生七海です。うちの店のこと、調べてほしいんです」
彼女の家は、神田で三代続く手打ち蕎麦の店
「桐生庵」だった。
父が一人で石臼を回し、母がつゆを取る。
客席は十二。
近所の職人と、昼休みの銀行員が来る、そういう店である。
三週間前、匿名掲示板に一本の投稿が立った。
『桐生庵の店主、客に暴言。厨房はネズミだらけ。保健所が入ったらしいぞ』
その一文が、SNSに転載された。写真が添えられていた。誰かの手元の、見覚えのない厨房の写真である。
三日で四千回リポストされ、週末には店の前に見知らぬ若者が二組、動画を撮りに来た。
日曜の売上は、例年の一割になった。
「保健所は、来てないんです。うち、去年から衛生の記録、全部つけてます。母が」
七海はスマートフォンを置いた。
画面には、転載された投稿の束。
同じ文面が、少しずつ言葉を変えて増殖していた。
発信源は一つ、だが尾を引く者が百人いる。ネット上の誹謗中傷は、まずサイト管理者への削除依頼、次に法的措置、そして投稿者の特定という順で対処するのが定石で、特定には「発信者情報開示請求」という手続きを踏む 。
信長はその言葉を、頭の中で三度繰り返した。
(発信者情報開示請求。なるほど。この街は、名もなき者を炙り出す仕掛けを持っておるのか)
「七海どの。まず、そなたの店の話を聞かせよ。料理の話ではない。誰が、そなたの父を憎んでおるかの話だ」