四、結末 そして始まり
田村さやかは、事務所に帰ってから、まだ泣いていた。信長は封筒を畳の上に置いた。
「これは?」
「お主の義母殿が、先ほど届けさせた。返すと言っておる」
「え……」
「金は、取り返せる。 ただし心は、そなたが取り返せ。無理に慰めるな。あとはそなたの番だ」
女は深く頭を下げ、去っていった。扉が閉まった後、部屋の隅のソファで、ずっと口を挟まずにいた若い男が口を開いた。
「殿。派手にやりましたな」
信長は振り返った。彼の最も近くにいた小姓――森乱。あの夜、炎の中で消えた少年は、いま「森」という姓のまま、この事務所の調査員になっている。
性別も年齢も変わり、背は伸び、声は低くなった。だが、彼が茶を注ぐときの手つきだけは、天正十年と寸分違わぬ。
「あの夜、わしは『生きよ』と言うたな」
「ええ。だから生き延びました。殿が借りたこの世界に、ずいぶん早く着きましてね。三十年、待ちました。」
信長は窓の外を見た。無限に伸びる灯り、
慌ただしい人の流れ、あちこちで光る小さな板。刀がなくとも、ここには戦がある。
刀を持つより難しい、心と心の戦が。
「探偵事務所……悪くない名だな」
「はい。ただ、殿。もうひとつ、伝えねばならぬことが」
「なんだ」
乱は息を吸い、静かに言った。
「明智光秀の転生者が、この街にいます。」
信長の指先が、あの夜の熱を思い出したように、かすかに震えた。
「……それは、彼の夢か」
「いいえ。この街で、もう一人、『探偵』を名乗っておる男です。殿とは逆側の、光の側の――」
「ならば尚更、会わねばならぬ」
「いつ?」
「明日にでも。 天下布武の続きを、ここから始めよう」
外では、今夜も誰かが誰かを騙し、誰かが誰かに救われている。
板の上で、世界は足音のように蠢いている。
信長は茶を飲み干し、初めてこの世界で、
自分の名で眠りについた。
(第一話 了)