いま、改めて彼女からの5通の手紙を読み返して、その圧倒的な重量感に言葉を失っている。そこには30年前の「私」と「彼女」が閉じ込められていた。
1. 消印と筆圧、そして「モノ」の記憶
令和のいま、私たちのコミュニケーションは驚くほど軽く、速くなった。LINEで長文を送れば「重い」と敬遠され、既読がつかないことに一喜一憂する。AIが返信の代筆すら提案してくれる時代だ。
けれど、30年前に彼女が綴ったこれらの手紙はどうだろう。 封筒に貼られた切手、わずかに滲んだインク、便箋に刻まれた筆圧。それらすべてに、彼女が机に向かい、言葉を選び、ペンを動かした「時間」が封じ込められている。
LINEのログは、30年後にこれほど鮮やかに当時の体温を蘇らせてくれるだろうか。これが「データ」ではなく「モノ」として存在し続けていたからこそ、私は今日、30年前の彼女の震える指先を感じることができているのだ。
2. 「追い手紙」の迫力
彼女は、一度は「さよなら」と書いて送った。【4通目】 けれどその数日後、私の住居のポストに直接、最後の一通を投げ入れた。【5通目】
2月の東京。「追い手紙」を一文字一文字したため、厳冬のなか私の住む場所へ足を運び、意を決して建物に入り投函する。暖かい自室にいながらLINEを送信する何倍のエネルギーを費やしたことだろう。
現代の恋愛作法で言えばそれは「NG行為」であり、執着だと言われるのかもしれない。
しかし、その5通目に書かれていたのは、未練ではなかった。 「対等になれるように頑張る」「追い越してみたい」 それは、一方的な依存を断ち切り、自分自身の足で立とうとする、二十歳の女性のあまりにも潔い決意表明だった。
今になってわかる。それは「重い」のではなく、自分の人生と、私という人間に対して、どこまでも「誠実」であろうとした結果だったのだ。
彼女の追い手紙は、「重い」と敬遠される追いLINEとは全く異質のものだ。
3. 「何者か」になりたかった彼女と、私
彼女の手紙には「何者か(私と対等な存在)」になろうともがく、光のような意志が溢れている。ただの過去の遺物ではない、鋭く突き刺さるメッセージである。「何者にもなれなかった」今の私に。
あの時代にスマホなど無かったおかげで、30年前のラブレターに再会することができた。昭和に生まれた我が身の幸運を噛み締めている。