過去をひきずらないようにする 現代人の ストレス 対策 | 原因と解決方法

原因と解決方法

どんな些細な悩みにも原因と解決方法があるものです。そんな悩みの種になっている原因と解決方法を調べています。
不眠、便秘、頭痛などの日常的に起こる症状についてです。

過去

過去にこだわるから今、動けなくなる

うつ病者の時間は止まっています。体は現在に生きていても、心は過去の時間に捕らわれてしまっています。
だから、「あの時に、あーしたらあれはうまくいったのに」ということをいつまでも言い続けているのです。
 
バックミラーを見て運転すれば誰でも事故は起こすでしょう。でも前を見られないのが、うつ病になるような人です。
心理的に健康な人は、うつ病になるような人は前を見られるのにバックミラーを見て運転しているのはなぜだろうと思っているのです。
 
そうではない。前を見られないからバックミラーを見て運転しているのです。過去にこだわるのは、いま、動けないからです。
「もういい加減にしろよ」と言いたいほど過去を引きずって生きているのは、先に進めないからです。うつ病になるような人はいま何をしていいのかが分かりません。自分は何をしたいのかが分からないということです。心理的に言えば、長いこと安全な場所で自分は何をしたいかを考えてこなかったからでしょう。
危険地帯で生きてきたからです。だからいま先へ進もうとする時に、自分は間違いなくこれをしたという確認がほしいのです。その確認がないと先に進めないのです。自己執着的な納得をしてから先に行くしかないのです。

人の心理的成長を止めるのは「憎しみ」

過去の空き缶をガラガラと引きずっているということは、あなたが「肛門性格」ということだったり、「執着性格者」だったりということです。肛門性格とは、フロイトによれば口唇期(生後およそ1年間のことをいう)を過ぎて次の肛門期(排泄のしっけが始まる2歳から4歳くらいまで) で成長が止まっている人です。
肛門性格は「節約」と「頑固」を特徴とします。肛門性格にしろ、執着性格者にしろ、心の底に憎しみがあるということです。
あなたはそれにしがみついて、その先に進めないでいるのです。それは憎しみが消えないからでしょう。
 
ことに幼児期の憎しみはなかなか消えません。人の心理的成長を止めるのは憎しみです。憎しみを持った者はその時から心理的成長を止めてしまいます。
 
その憎しみに心を支配され始めてしまいます。ある年齢になってから憎しみを持ったとしても、それを解消する能力をすでに持っています。だからその人の心理的成長を一時的に止めても、やがて成長を始めて、その人の人生に決定的な影響を与えるということはありません。
憎しみを解消する能力とは、生産的に生きる能力である。しかし幼児期に憎しみを持ってしまうと、まだ生産的に生きる能力がついていません。
そこでその憎しみは根雪となってちょっとやそっとのことで消えません。
つまり、憎しみを持つと多くの人はその幼児期の段階で心理的な成長を止めてしまうということです。過去に捕らわれてしまった人は、社会的、肉体的には大人でも、心理的には幼児のような、いわゆる五歳児の大人とでも表現できるような人が多いのです。

子供の頃の憎しみは過去にならない

小さい頃に足に怪我をして痛かった記憶があります。ところがそれを母親が傷口を口で吸って薬を塗って治してくれたとします。するとこの「痛み」という体験は、痛くても過去のものとなります。この体験がその子の心を捕らえてしまうということはありません。

そしてこの子はこの体験から生きる知恵を学びます。

しかし、ここで母親が笑って無視したとします。そうなると、この小さい頃の怪我という体験は、心の世界では過去の体験にはならないのです。

肉体的な痛みは過去のものだけれども、憎しみを持ち、それがやがて恨みに成長するでしょう。肉体的な時は過去だけれど、心理的にはその体験はいまなのです。

社会での時は過ぎていくのですが、心の中では時は過ぎていかないのです。そこで過去への執着ということになります。

30年前に土手で母親に捨てられてしまった。その人が10歳の時でした。いまは40歳です。しかしその人の心の中には、その時の恐怖は残っているでしょう。

「もう過ぎたことじやないか」と人は言うかもしれません。「いま生きているのだからそれでいいじゃないか」と人は言います。

しかし心の恐怖は消えない。そしてさらに消えない恐怖の中で10年経ち、50歳の大人になっても、心の底に憎しみを持つでしょう。

その40年前の事件は、捨てられた人にしてみれば心理的には過去の出来事ではないのです。単純な憎しみは消えるかもしれません。

しかし愛されない悲しみや、捨てられる恐怖などと一緒になった憎しみはそう簡単には消えないのです。

 

他人から見ると、この悲しみや恐怖が分からないのです。だから、「いつまでも過去にこだわって」と言うのです。そしてさらに20年経ち、その人は70歳に。

しかし憎しみは消えないでしょう。人は、「いったい何歳になっているの? もう70歳でしょう」と言うでしょう。しかし憎しみは消えないのです。

人は見える行為のみを見るのです。だから「もう許してあげてもいいんじゃない」と言うでしょう。しかし、本人にしてみればそれは過去の出来事ではないのです。その悲しみや恐怖はいまの悲しみであり、いまの恐怖なのです。

嘆いても現実が解決しないことは自分もわかっている

それにしてもうつ病になるような人は「なぜあきれるほど過去にこだわる」のでしょうか?「過去にこだわる」と言った時に、2つの意味があります。

1つは自分の過去の失敗をいつまでも悔い続けている時、その理由はそのように悔やむことで失敗の免罪を得られると思っているからです。

そしてそのように悔やみ、自分を貴めることで自己の価値を維持し続けようとしているのです。

「過去にこだわる」と言った時のもう1つの意味は、自分が過去に被った被害をいつまでも訴え続けることです。被害を誇張して訴えるのは他の個所でも説明したとろが、憎しみの感情を吐露しているのです。

被害者意識に立ってものをいう人が日本人には多数います。

それは日本人には心の底に憎しみがあることを示している。それと同時に、彼らは愛を求めているからです。

被害者意識に立ってものをいう人は解決を考えていない。のです。

自分を認めてくれ、愛してくれ、分かってくれと叫んでいるのです。

人がいると妙にはしゃぐ子供がいます。そうした子供は淋しいのです。周囲の人の注目を求めています。被害を誇張して訴える大人の心理はこれと同じです。

過去にこだわる理由は、過去に被った被害の苦しみをいつまでも訴え続けていれば、いまの苦しみは消えるからです。人がいつもいつも嘆いているのは、注目を求めることでいまの苦しみを消すためです。

嘆いていればその瞬間、少しは心理的に楽になります。注目を求めている瞬間、少しは心理的に楽になります。

 

「もし私の親に少しでも愛する能力があったら、私はここまで不幸にはならなかったのに」と嘆いていることで、かろうじて現実にとどまっていられるのです。自分の不幸をそのように嘆くことで慰めているのです。「私の親兄弟があそこまで冷酷でずるくなければ、私の人生はここまで惨めでなかったのに」と避けようのない過去を嘆くことで、いまの不幸に耐えようとしているのです。

嘆き続けることでガスを抜いています。自分の憎しみの感情を喋っています。

話しても話しても憎しみの感情が晴れません。傷が癒されない。そこでいつまでも嘆き続ける。過去を嘆いていても、いまの現実の問題を解決することにはならないことは、嘆いている本人も周知のとおりです。しかし変えることのできない過去を嘆くことで、いま心理的に楽になるから嘆くのです。

不幸な人の思考は悪循環する

嘆いている人は、過去ばかりでなくとにかく現実を見たくないのです。そして事実・現実を見ようとしません。たとえば粉塵がすごい。ガンになるかもしれない。その時に、「昔はもつと酷かつた」とか、「昔は良かった」と言っています。そう言っているだけで引っ越しの準備はません。そのためのエネルギーありません。過去にこだわるのはいまの苦しみを楽にするためです。

そして逆にいまが苦しいから過去を抜け出せないでいるのです。人はいまが不幸だから過去に捕らわれて生きてしまうのです。

過去に捕らわれて生きるから、いまを生きられないでいるのです。いまを生きられないからいまが不幸になります。悪循環です。

不幸な人はどうしても、やり残したことに執着してしまいます。やり残したことに執着するからいまが不幸です。

いまが不幸だから、やり残したことに執着するという悪循環です。それを、心理的に病んでいるは自分のいまの環境を嘆き過去にこだわっている人に、「何でいつまでも過去にこだわっているのか? 」と疑問を投げかけます。

「過去は嘆いても変わらない」と言うでしょう。そして「いまを生きよ」と言うでしょう。心理的に健康な人はいまが幸せだから、不幸な過去から抜け出せています。

心理的に健康な人はいまが幸せだからいまを生きられるし、いまを生きられるからいまが幸せになるのです。

まさに、これが好循環です。や心理的に病んでいる人はいまが不幸だから、いつまでも不幸な過去にこだわってしまいます。

不幸な過去からどうしても抜け出せないでいます。自分はいまが幸せであり、嘆いている相手はいまが不幸だという、その違いを考えないで、過去にこだわって生きている人を責めるのは酷です。前に進めない人を責めるのは酷です。

「孤独な決断」

愛に恵まれた者が、愛に恵まれない者を裁くことが許されるのでしょうか?心理的に痛んでいる人には、心理的に病んでしまう理由があって心理的に痛んでいるのです。誰も好きこのんで心理的に痛んでいるのではありません。心理的に病んでいる人も、避けようのない運命のもとに苦しんでいるのです。
誰だって「母なるもの」を持ったやさしい母親の元に生まれ、可愛がられて成長したいのです。心理的にも、経済的にも豊かな環境の中で成長したいのです。しかし人は残念ながら自分の運命を選択できないのです。与えられた運命を生きるしかありません。したがつて、不幸な過去から抜け出し、「いまを生きる」ための唯一の方法は決断です。
先に述べたように、「人生とはこういうものであったか、人間とはこういうものであったか」と学び、そして「ならば私はいまからはこう生きよう」という決断です。
それは孤独な決断となります。アメリカが2003年にイラクとの戟争に突入していく時に、アメリカのテレビは、「ブッシュ大統領の孤独な決断」と言いました。CNN テレビりは、記者会見を終えてお付きもなく、たった1人で赤い絨毯を歩いて去っていくブッシュ大統領の背中を映していました。
たしかにその後ろ姿には華やかさはなく、透けるような孤独がにじみ出ていました。たしかにアメリカ大統領の決断は、多くの人の生死を決める孤独な決断だったと思います。おそらくリーダーには、誰でも多かれ少なかれそのような決断があるのでしょう。
しかし、孤独な決断をしなければならないのは、何もリーダーばかりではないのです。リーダーとはまったく異質であるが、「母なるもの」を持たない母親の元に生まれた人もまた、孤独な決断をしなければなりません。それは生きる能力を奪われた者の「それでもなお、生きるための決断」です。
生きる力は本来他者から与えられるものです。その生きるエネルギーを与えられていない者の、「それでもなお、生きるための決断」です。それは恐ろしいほどの孤独な決断でもあるのです。本来絶望と恨みの中で死んでいくのが人間の心理として当たり前の者が、「それでもなお、生きるための決断」をするのです。

「私は神の子だ」という啓示

「孤独な決断」とは、不幸になる宿命を担った者の「それでもなお、幸せに生きるための決断」です。おそらくその決断をする時に、「私は神の子だ」というような啓示があるに違いありません。それはほとんど人間には不可能と思われる決断だからです。決断をする力のない者がする決断だからです。
現在の学問が証明するところからすれば、あるタイプの脳を持った者が、ある特徴を持った家族の中に生まれたら、絶対に幸せにはなれないでしょう。
具体的にいえば、抑制型の人、つまり左脳に比べて右脳が活発で、反応しやすい扁桃核を持ち、副交感神経に比べて交感神経が活発な人が、ボールビーの言う「親子の役割逆転」をした家庭で成長したら絶対に幸せにはなれないでしょう。生まれてから死ぬまで間違いなくずーっとと不幸です。
しかし、「それにもかかわらず」幸せになるという決断です。マズローが、自己実現している人は、「それにもかかわらず」という考え方をする共通性があるとい1つの脳の研究が盛んなアメリカにおいても、なお無宗教者は123% であるといいます。したがって、「それでもなお、幸せになるための決断」はほとんど宗教的な体験なのです。
だから、その時に〔私は神の子だ」と感じてもそれは狂気の世界の出来事ではないのです。まさに現実の世界の出来事なのです。
「母なるもの」を持った母親の元に生まれ、かつ非抑制型の脳を持った人には想像もできない壮絶な決断です。
淋しい決断です。孤独を越えた孤独な決断である。いま幸せな人は、過去のどこかで幸せになる決断をしています。肉体的に説明すれば、出血多量でも「なお死なないでいるような決断」です。
心理的に病んでいる人は、不幸な過去から抜け出すための「その決断」ができないでいるのです。

 

現代人のための心の休憩