あん時の命

2016年34歳当時。私はまだロック・ミュージシャンの夢を抱いていた。

14歳、中学2年の時からギターに触れ、憧れたバンドマンという生き方。。

それから20年経ち、もはや拗らせ果てていた。

もうあとはひけない、と漠然と思っていた。


…いつからだろう?

誰に対してだろう?


なんだかんだで大学にまで通わせてもらえて、たいそう立派な資格をとり、堅い定職に就いたが給料は多大なストレスと共に発散され貯金はほぼ無く、夢という名の一攫千金と、愛という名の色欲を追うばかりで、将来や老後、むろん結婚のことなど微塵も考えていなかった。

音楽知識や楽器技術の探究心や向上心も尽き、流行を感知するアンテナはとうに朽ち、インターネットという文明の利器を駆使し広がった視野で良いものを吸収するではなく、ただSNSの反応だけを気にし、自分自身を着飾る投稿に腐心し、フレンドやイイねの数に一喜一憂、自己満足…


結局社会人としての趣味。

それ以上でもそれ以下でもない。

それが私が追いかけていた夢という幻想だったのだ。


「彼女と結ばれたから諦める、とかじゃなくてもう潔く断ち切ろう」


諦めずに、頑なに自らの軌跡を肯定することも必要ではある。

ただ、否定する勇気も必要だと思う。

無理してキープし続けるものでは無い。


もうすぐアラフォー…

取り返しのつかない体のガタがくるかもしれない。


…つまりもう才能も機会も時間も無くなってしまった。

いろんな蓄えも、人望も、スッてしまった。


愛と未来という2枚の非常に眩しく、脆いカードしか手元に無くなった。


音楽、ライブ、ロック、バンド、ドラムに対し、私自身に対する過剰な期待と根拠のない自信により、それらを随分と痛めつけてしまったものだ。。


未練だらけのこれから、身勝手ながらもどう向き合えば私自身救われるのだろうと考えた。


あぁ…音楽とは?


「夢を叶える云々ではなく…もう一度、真摯に向き合ってみよう。

今の私に、1人の女性と1人の子ども同時に愛していける力があるか?

音楽をロックを、愛したようにできるのか?

どういう風に彼女たちと共に生きたい?」


過去最大に愛した女性を振り向かせた大逆転攻撃と劇的展開を迎え、どうなるかは未知だが、これからは私らしさというものを、この振り回した夢への時間から少しでも抽出しよう、という気になった。


私は思い立ち、2012年振られる前に彼女とデートしたショッピング・モール内にある楽器店のレッスン教室に通うことを決めた。


この歳で習い事とは…少し前からの自分からは到底考えられなかった。

下手したら歳下の大人から、自分の実績や経験を一旦ゼロにされ、基礎から教えられる。。

実際、音大生声楽科出の女性に本格的なボイス・トレーニングなどを学んだ。


「声帯という楽器をどう磨くかは自分次第!」

割と楽しめて、できた。

新しい音楽への向き合い方と挑戦、上手くなる前にはまず、そういう意識を持ち、生活姿勢に慣らすこと。


これも音楽に対して、周りに対して「自分が謙虚になれた」という証明だったのだろう。


…北越谷の音楽仲間である對馬という男が企画した、宮城県石巻市への慰問ミニライブ・プチツアーなるものにも参加した。

女川町の学校や病院は震災後からそのままの形で残っており、やはり遠くで見聞きするのと現場で体で感じることはまるで別物。

14:46

時が止まった教室に立ち尽くし、言葉にならない気持ちとはまさにこれか…


これは、いわば「ライブ」のようなもの。


そうなのだ。


私は長年、演者側の立場や目線だった。

それだとオーディエンスのバイブスのように感覚器であるレセプターで受け取ることを怠ってしまいやすかった。


いまだにそう!

だがそれより、音楽という名のもとに人が集い、人と関われることへの感謝が生まれてもきた。

大した結果を出せてない、大して上手くもない、こんな私のステージを楽しんでくれたり、準備してくれる人や楽しみや喜びを共有できる仲間がいる。。


志の高さ、ベクトル、経験…関係ない。

マウンティングなんて愚の骨頂。

私はいまだにアコギのハーモニクス・チューニングを覚えようとさえしない。(それもどうかだが…)


ある時は夢中になり
「好きでやって、それが結果良かった」

またある時は受け取り側として
「なんか言いようもない感覚だけど、確実に伝わっている」


これで最高じゃないか。


「足るを知る」


それでも私たちはすぐ不安になったり無いものばかりねだってしまう。。

貯金や結婚、確実なものをもってしても。
(むしろ逆効果か?)

健全な心と健康な体はもっと確実で、真の幸せをもたらすはずだと分かっていても、なかなか矯正するのは容易くはない。

先立つものも必要。

余分には無い!

だからもう

「ライブをVRで体験し

ライブをネットで配信する」

極論この繰り返しが、今の私史上コスパ最強の生き甲斐と楽しみが持てる生き方だ。


そのモチベーションは、そう

家族だ。

まずは家族のために時間と金を惜しみなく使う。

無償の愛?

ばかいえ
むしろこっちが力をもらうし、学ぶし、感動もらえるんだ。

これこそ音楽表現磨く最短ルートでもある!

と………


前振りだけで終わりそうだが、ここまで悟るのに7年かかった。

ブラット・ピッドもびっくり、チベットの高層の域である。


そんな2016年度はコピー・ライブ・イベントやサポート・ドラムを数回し、段々と彼女との「共同生活への実現」と乗り出す時期になっていった。


「結婚しよう」とは言ったもの…引越し、仕事、子ども、、問題は山積み。


気持ちがあってもお金がない!


彼女の親からは
「やっぱり無理な話だったね」と

蔑んでるような、カマかけられてるような突き放した評価を下された。


結局私が単身埼玉県から北関東の現住所に転居し、とりあえず広いマンションを借り、通勤時間を倍に伸ばし、いきなり妻と2歳男児との共同生活が波乱の幕を開けた。


今後は彼女の実家の犬と住める条件の物件で、わんぱくな男児の逞しい成長を見据えての選定だった。


意気揚々と4月を迎えた…が!

既に数日で雲行きは怪しくなった。


まず2歳男児ボウヤの感情を中心に生活が展開される。

新生活、新環境、共働き…てんやわんや。

恋人同士としての期間の短さもあり、同居してからは甘い雰囲気なんて皆無。

胸に寂しさやら重さやら、とにかく何か引っ掛かり、時に傷ついていた。
しかしまだ、それを傷とすら認知せず、私はすぐに再び彼女と愛しあえることを諦めず、助け合い協力しあえると信じていた。


常に不機嫌な彼女、いつまでも懐かないボウヤ…

正直に。

次第に暴言無視八つ当たりされた、、

日に日に思い描く理想と遠のいた。


4月のまだ中旬…


秋田の祖母が救急搬送先の病院で亡くなった。


しばし実家で数日、母子と離れて過ごす。

私はまだ、親戚に事情を話せる心境にはなれなかった。


さすがに、自信が折れかけていたのか?


…やっぱり無理なのかな?
埼玉、戻るか??


無意識に考えていたと思う。


〜しかし



なぜ春に私はコケることが多い?

中学高校はイジメにボッチ…

ブラック学習塾にピンク公立病院!

グレー手術室は去年。

もういいよ


〜2017年。

彼女のあからさまな情緒不安定や攻撃性は新生活でのストレスと私とのイメージの乖離、そして…


「新しい命を宿した」


ことによるものだったと、祖母の葬儀関係を終え帰宅し、その晩の寝室で聞いた彼女の言葉で全て合点いった。



転生…?


のちのエコー写真でまるで祖母が微笑んでるようにこちらを見ていた胎児の性別は、予測通りの女の子だった。


しかし、それから3人の生活が安定するわけでは無かった。

少しでも気を抜くと暴言を浴びた。

新しい子どもがデキたから安心してるんだ、と思われたのだろう。


彼女は理由をつけては実家にボウヤと数日帰ることが増え、「人のテレビや洗濯機を使わないでよ。もう使わないから返して」と平気で言い、義父が代わりに運んで行った。

「もしまた男の子を産んだら、そちらに差し上げます」など、道徳的に外れかねない発言もした。

しまいには、Gacktのライブに行ってしまいその間、ボウヤと2人で留守番を頼まれた。


案の定家の中がグッチャグチャに…


義母からも結婚式や住居の件など何かしら責められ、義姉は的外れな助言をし、私の両親も巻き込まれた。


…どうして、全てはたいて身一つで引越し、行動で意志を示し、仕事場も遠くても通い、式の資金まで両親の援助をもらってまで姿勢を見せているのに。。


もう万策付き

1人で3DKのマンションで私は、みるみる痩せ細り、イオンシネマにフラフラ寄り、戦争映画を観てしまう精神状態に陥ってしまった。


危なかった。。


亡くなった祖母と胎児の女の子…命が繋がり巡っているとはいえ

人間というハコとその魂はひょんなことから離脱する。

大切に乗っても、ブレーキとアクセルを平気で間違える。

かといって80歳でハイ免許返上、クルマ買取りってわきゃいかない。


とりあえず私はあと40年は大破させず暮らせる生活を送っていきたい。



ところで今日でボウヤは10歳になった。


半成人おめでとう。

まだまだ君とはうまくいかないけど、よろしくお願いします。

いつも怒ってごめん。

きみがママのとこに来てくれてありがとう…


じゃあね。


続く…