最近また純文学なる書物を読み出した。
2人の子供を授かってからの私の趣味はアコースティック・ギターの弾き語りで、尾崎豊さんなどカバーした曲を動画投稿することだ。
2年以上続けていたが、現在とある事情で休憩中。。
それをはじめた頃、家計負担軽減のため、スマホのキャリアもプランも格安コースにし、ギガ節約のために電車通勤中は平安レベルの最古のコンテンツである「紙媒体の活字」を読みこんでは脳内スクリーンにエアプレイしていた。
誰も彼もがマスクしてスマホと睨めっこしてる人々のさなか…
「三島由紀夫」という少々過激気味な文豪の著書は…
その耽美なニヒリズム、氷のような様式美は背筋に軽く塗られたハッカ軟膏の如く、夏の暑さを忘れさせるほどであり、
そのドラスティックでラディカルな胸熱ストーリー展開は極寒、地下鉄の閉鎖された人工的な駅構内であれ、私の外套からは惜しみない熱が伝導される始末となっており、
もはや車内の空調調整は不要だった。
…とまぁ、にわかに影響受けるだけあり、上のような構文を組み立てるのに約30分かかってしまった。。
短編集と「金閣寺」「仮面の告白」「永すぎた春」…なんとなくだが、三島由紀夫の世界観にハマることができた。
それらに続いて選んだのが彼の最後にして最長のシリーズもの、「豊饒の海」
その第1章、つまり「春の雪」だ。
先日古本屋に立ち寄り、2005年頃に同作が東宝で妻夫木聡と竹内結子主演・映画化していた当時の宣伝の帯があり、興味が湧いた。
たまたまアマゾンのサブスクで検索したらあったので、つい視聴してしまった。
読む前にネタバレしてしまったのだが、結果的に良かった。
三島由紀夫の華麗すぎる文体では、大正初期の貴族風景を想像するに於いて、まだ私のイマジネーション力では到底乏しかったからである。
それにおそらく内容も映画サイズに凝縮されまくっており、後から原作の活字でカットされた肉付きを堪能するという愉しみができた。
何より予め映画というビジュアル手段でイメージを叩き込め、スラスラ読み進められる。
竹内結子さんも何と艶やかな美貌と所作、そして声…儚げな演技が後年逝去された現実を更に幻想的にさせた。
高岡蒼佑さんも親友役で出ており、なんだか不思議な感覚で観た。
刹那主義ともいえるキャストで終始、芸術作品としては至高のものだ。
妻夫木聡はいい意味で20年経っても容姿が変わらない役者だが松枝清顕の役にぴったりだった。
大河ドラマの直江兼続も、好きだった。
しかし、ロトシックスのCMでおちゃらけてる姿とは真逆だ。。
〜前章のブログでは、私もなんだかんだとスケコマシな青年期であった事が想起され、
それでいて今もだがメンタルも緩急激しい性分…
自分は三島由紀夫よりももしかしたら太宰治に近いのではないか?
だから無いものを求めるのか?
つまり20代後半の思い出は今振り返ってみるとそんなに暗いものではなかった。
ビジュアル系バンドSで味わった経験、喜び、叶えた夢には感謝している。
そしてしっかり専門学校も卒業できた。
そこでは異性関係でどうこうは無かった。
故に、10年以上たとうが記憶は熟成されず淡白なままだ。
高校〜大学ほどこのブログを物語的に面白くさせるほどのエピソードは正直無い。
最近綴るペースが早い気がしたが、そういう意味だ。
…
2010年。
看護師の国家試験並びに専門学校の卒業を控えた年末、私はとあるバンドのサポートドラムを大事な時期と分かっていながら、承ってしまった。
それはロシアンルーレット時代によく対バンした「ダーティースナフキンズ」のリーダー春山氏の新しいプロジェクト、女性ボーカル・スタイルのロック・バンド「紅ジャム」。
春山氏はギタリストというより制作・企画などに手腕があり、ダーティーは徳間ジャパン、紅ジャムはユニバーサルで音源流通をさせていた。
私はロシアンルーレット解散後も、春山氏の音楽活動をSNSで拝見し、コメントなどを送りあっていたため、ことの至りとなった。
ちなみにまだまだガラケー時代。
そういう事をマメにやるバンドマンはあまりいなかった。
紅ジャムは都内のホビー・トイ・フェスなど小さなイベントも精力的に出演していた。
時間が許す限り彼女とデートがてら見に行ったりもした。
のちにCCレモン・ホール(渋谷公会堂、と言えば分かりやすい)出場、NHKの番組に出演したり、トータル的に商業的正攻法でのプロモーションを確実にされていたが、春山氏自体は長髪のハードロック・ギタリストの風防だった。
私は試験勉強で忙しかったが、1本のライブだけならと受験勉強の息抜きがてらリハーサルに数回参加しては赤坂のライブハウスで紅ジャムの曲をドラムでプレイした。
ボーカルの女の子は私と同じ28歳。
現在は健康・美容系のインストラクターをしている。
当時の彼女も私も、それでもまだ夢に溢れてはいた。
私も晴れて看護師になったら自分のバンドをまた再始動と言うしようと言う企みも生まれた。
国家試験後、自己採点だが合格は確定的となった。
…!
そして3月5日の卒業式の翌週、この国において、歴史的な大災害となるあの瞬間が訪れるとは…。
あれから私の第二の社会人人生がスタートを切った。
「さよなら傷だらけの日々よ」…
と言いたかったが、むしろ…
ファイナルファイトで言うと、まさに2面の幕開けだった。
そう、、あの「ソドム」を倒すまで、私は何度も何度もコディとハガーを爆発の危機に晒し、コンティニューしなければならない羽目になったと言うことだ。。
まずはロシアンルーレット時代の田口からの誘いで「シルバーリムジン」と言うロックンロール・バンドにもサポートで入ることになった。
これはヴィジュアル系時代の「S」とは逆で、表上はサポートメンバー、
裏ではちゃんとスタジオ代も払ったと言う。。
これまた田口の腹に納得した形ではあったが…
今思えば彼の話術が優れているのか私が単細胞なのかわからない。。
結果を先に述べると、結局田口とやってても、私はヴィジュアル系時代以上の喜びや達成感を得る事はなかった。
しかし田口にも感謝をしている。だから協力した。
彼も、Sのリーダー・Kも、基本言うだけのことはやろうとする、そんな硬派な連中だ。
主君の選定が間違えたと、そんな他力本願で自ら己の非力を認めるような認識だけは、後生するつもりはない。
実際、私は彼らに及ばなかった!
自分がイニシアチブを執った「GYPSY」も、ソロ活動も。。
やめグセやサボりグセ、自意識過剰や世間知らずさを矯正しないまま…
「自分で音楽活動」といっても、いつも何かしらでメンタル状態を言い訳に盾に、ダラダラとやっていた。
さて、看護師としての第一歩。
晴れて齢28にして公立病院の病棟勤務に配置されたわけだが、「生地獄」以外の言葉が今のところ見つからない。
まさに「春の雪」が降り、永久凍土になっているかもしれない。
はたして掘り起こせるか…
続く)