2008年春〜

25歳にして、私は新たな門出を迎えた。

「幾つになっても、人は何でも学べる。挑戦できる」

日本でもそんな価値観がマイナーではなくなってきた頃だった。

それまでは新卒終身雇用に年功序列、役職年収ステータスみんなで一緒に墓場まで…
若いうちに苦労することは尊い事。

なんて、もはや熱い団塊世代の神話。


いい歳して資格取得のために親のスネかじり専門学校に通うなんてことは…

就職難のこの時代、皮肉にもミレニアムを跨いだ若者とっては何ら恥ずべきものではなかった。

まさに氷河に漂いながら、30代40代50代でも自らのタイミングで本気を出せる時期が来るまでゴールドスリープできるようになった、ということだ。


両親は幸いにも、理解と経済的余裕があり私は「出戻り」娘の如く数年振りに実家に居座ることになった。

最初は父が反対の姿勢だった。
それはちょうど勤め先からリストラに近いものを宣告されていた時期であり…

父は1970年代に法政大経済学部を出、高度経済成長の煽りを受け大手飲料メーカーの営業に就職。

そして日本の衰退と共に半生以上身を捧げた組織から残酷な現実と処遇を通告された。

定年間近の最後に身をもって「サラリーマン安泰神話の終焉」を味わい、新時代の到来により資格とキャリアがものをいう実力主義化した新しい社会人スタイルに、遅まきながら気づいた次男坊を応援する気になってくれたのだ。

頭はやや堅いが生まれながらにプライドと品位は高く、酒の量も、アパート投資などに手を出す豪快さも、軍人であった祖父譲りだった。

そんな、私とは正反対の性質を持つ父とは、幸か不幸か思春期にはあまり接することができなかった。

地方に単身赴任していたためだ。

何らかの意図を持って巡り巡って、時を経てその機会が与えられたというのか。


…運命とはあらゆる側面で向き合わなかったツケを回収するものなのだ。


そして明らかに10代の時より父とも母とも面と向かって会話したり、また家族として互いを思いやる時間が増えていった。


全日制の専門学校生として初老夫婦とともに規則正しい生活を送り、心身共に晴れやかに入学式を迎えた。


高3での文系クラス
大学英文科…

私の行く末は無意識にも女子が7,8割を占める組織分布であった。

もちろん看護師の専門学校も例外では無かった。
生徒の半分が現役合格生。
ついこないだまでJKと呼ばれていたブランド品だ。

クラスメイトとしてこれから3年間青春を共にできるなんて、ありがたいことだ。

どうこうなりたい、なんて邪な気持ちより目と心の保養に素晴らしい作用をもたらした。


しかし、もはや女子高状態。。

だいたいが世間知らずで、ダ埼玉のイモっぽさがあり、そういう意味で可愛らしいのだが…

そこはザ・女の世界。

既に他人と比較するレースは始まっており、言動や所作から滲むしたたかさや腹黒さが天然・天性のものだと思うと、おそろしかった。

余裕の無い戦いをしてきた人たちは、それなりに強さを得ねばならなかったと思うが、何かモヤモヤと世の無情、虚しさややるせなさといったものを感じた。


我々男子は5人。
肩身の狭さで当然団結し、いつも固まって行動した。
どの学年も、多分ほかの看護学校も、99%そうなるだろう。

いまは滅多に集まれないが、私にとってグループ・ラインで連絡をし合う「唯一の」コミュニティだ。

今までのバンドや、大学軽音サークルでも、
まして中学高校時代の友人達ではなく、だ。


この専門学校時代の級友は、卒業後の数年も配属先の病院で理不尽な目に遭いながらも共に闘い、苦しみを味わってきた間柄だ。


…但し、1人を除く。


正直苦手な男だった。

というよりは…

まさに
坂本・美木(前章参照)と同じく
心理学的に「闘士型体型の繊細・臆病者」タイプの男だった。

いわゆるオラオラ系、ノリノリ系
で、たまにキレちゃうナーバス系。


…あぁ、また私の目の前に現れた!


更に、彼はロック・バンド・マンだった!

私と同じ人種なのか?


世代的には一つ上でボウイなど好む元・ヴィジュアル系ボーカリストだった。

渋谷の1000人キャパシティ・クラスのハコでのワンマン・ライブの経験もあったそうだ。

しかし申し訳ないが、、その面影は広い額やメタボリック中年体型からはあまり感じられなかった。
キャラクターはそのおデコ並みに明るく、頼れる感じが腹とともに出ていた。

ホストとか向いてるような気がしたが、どうやら彼はゆとり世代女子にはウケなかった。


やたらと「マウンティング」(この当時こんな便利な言葉、なかった!)し、「常に話題の真ん中にいたがる」面倒臭さが正直あり
若い女子はもちろん、社会人経験者生徒からも避けられやすい気質を持っていた。

「自分はデキる、年上だから頼れる存在にならなきゃ」と過剰に己に課すことは悪いことでは無いのだが。。

先の話だが案の定、彼は鬱を発症してしまった。


悪いが自業自得。。見栄張りがすぎた。


あと彼は同じく既卒だった私に対し、なにかと対抗意識をむき出していた。

自分が未知・無知な事だったり、皆が彼より私の方に頼ったりする雰囲気になる時、わざと周りを同調させ、巻き込みやすい「負のオーラ」で私をこき下ろしてくる。

さぞかし自分が一番好きなのです。

例えば医療事務の経験や知識により、授業で私が活躍し脚光を浴びようものなら、足を掬うようなネガティブな意見や反応を、あたかもクラス全員を代表してるかの如く示す。

「こいつ、知ったかぶってる〜」とクラスに笑いを起こし私に恥をかかせたこともあった。

見事なダブル・プレイでござる。

自分が気に入らないものを批判する空気を女子たちとよくリンクさせており
男子グループの現役の子らの行動と思考は、だんだんと彼に毒されていった。


私は割と早くから彼はハリボテだと見抜いた。

プチ成功してるバンドマンとはいえ、あまり近づくことはしなかった。

だから頼ることもないし、嫌うこともない関係だった。


早い話、幾つになっても男は…

結局モテたいんですよね?

彼も、彼を頼れる存在と崇めてるオメデタイ連中も、どうでもいい。


私はハナからオイシイ学園生活なんぞ目的としていない。。

だが、やたらイジられた。。

18歳にとって私は結構なストレンジャーだったからか。

決して望んではいないポジションだったが悪くはなかった。
ちょうど狩野英孝氏やDAIGO氏がブレイクした時期でもあった。

自然体でいれて、ラクだしありがたいなぁと思えた3年間だった。


とはいえ、学校と家の往復だけでは味気ない。
彼女と遊ぶのも良いリフレッシュになっていたが、私はやはり…ロックをし、ロックに生きる時間をなんとか作り出すことに腐心していた。

〜私は在学期間、ヴィジュアル系バンド・Sのリーダーに口説き落とされ、サポート・ドラムをやることになったのだ。

Sは元はリーダーのKが京都で結成させたロックンロール系バンドだった。
最初のコンセプトはSADSやイエモンなどだったそうだが、段々と派手な方向になり、いわゆる「名古屋系」に逆行。
カラー、ガーゴイル、かまいたち、ザ・デッド・ポップ・スターズ、ピアス、そしてレディース・ルームなど名だたるバンドのメンバーと交流する程Kの顔は広かったが、その割に私が大学時代在籍していたロシアンルーレットと対バンしていた時などは、「S」は人気がなくメンバーも流動的。

いまいちヴィジュアル系とロックンロールの狭間に居て、どうにか融合させようと試行錯誤していたようだった。


「これからは開き直って戦略的にヴィジュアル系シーンで差別化としてのロックンロールで勝負する」
「拓也の学校の都合でライブは組む。長期休みはツアーを敢行する」
「表向きは正メンバー、経済的負担は無し」


文句なしの条件に純情な感情は高ぶった。

ところで「S」は先ほどのクラスメイトの元バンドマンとは過去に絡みは無かったようだった。
ちなみに彼は案の定最初は渋谷O.westのワンマンなどの栄光でマウンティングしてきたくせに、
「まだ、そんな事やってんの?」という反応で私がクラスメイトにライブ宣伝などしづらい雰囲気にした。

まぁ、学校での集客は期待してなかったから別にムカつきはしなかったが。

「学校いきながらバンドなんてナメてる。俺は辞めてまで勉強してるんだ。気に入らねー」と言った具合か。

そういう時だけ足並みを揃えなきゃダメでしたかね?
ほっといてほしかったなー

しかも自慢をキッチリ入れる性格の良さ!


逆にやる気にもなった。ありがとう。
まぁモチベーションは下がることは無かった。

…という事で、Sの新・正式メンバーとして、ビタ一文出さない代わりに抜かりなきドラムのプレイと共に微々たる動員の力になろうとした。

バンドのコンセプトにも賛同できたし何より私のロックのルーツは…ヴィジュアル系なのだ。

Kにも、専門の彼からもシーンは昔から弱肉強食の世界…綺麗事ではできない世界だとは理解していた。

「客呼んでナンボ」「しかしバンギャは、彼女らは曲を聴きに来てはいない」「予定調和の曲調やステージングが盛り上がる」「つながり」…


これら現実の定義ももう押さえた上、


冷めた目線で燃えてはきた。


心とは裏腹に厚化粧をし、シドやガゼット、ナイトメアなどが頂点に君臨しシーンが再興した「ネオ・ヴィジュアル系」世代の熾烈なインディーズ覇権競争に巻き込まれる私であった。。


しかし正直のところやはり、
大塚レッドゾーン界隈のバンドやイベントでグラムやヘア・メタルとして一緒クタにされ、肩組んで「共に闘う」方が性に合っていた。。


死にものぐるいで勉強し、他人より優れた成績で「資格取得のための資格」を勝ち取った訳だが、あとは学校側が体裁や面子のために「落ちないための合格」までサポートしてくれる。。
振り落とされないためにある程度の覚悟と身の振り方があれば大丈夫だと信じていた。
基本私は物事を舐めてかかり、だれより自分に甘かった。


「これが本当に最後かなぁ」


数年という時間とチャンスと共にリミットも与えられた私だが、やはりこんなノホホンとした状況でないと腰を据えられない時点で勝負はとっくにシロクロついていたのだ…


続く)