前回までのあらすじ)


大学卒業後、理想のロックバンド「ロシアンルーレット」で音楽の夢を追いながら学習塾に就職し、社会人としての現実を知らされ、見事心と体を叩きつぶされた私。
人間としての未熟さを思い知り、そして裏切りや他人や社会の厳しさ冷たさを味わった。。
なんとか這いつくばり起き上がれていたが、24歳を過ぎたころに、私自身の音楽活動の休止並びに充電期間を設けることにした。


それは未来に向けての、またひとつの夢に向かうため。

1人で、持つものあるもの全てを使い、新たなる戦いに挑もうとしていた。。)


「看護専門学校受験」そのため情報収集から全ては始まった。


そして分析。
ビジョンと目標を定め、綿密なプランとモチベーションのキープ…あらかたの準備だ。

志望校の標準…考慮すべきは実家から通う距離はもちろん、何よりも学費だ。
インターネットで目星を数校絞り、受験科目の参考書を書店で取り寄せた。


今回は免許などの資格や公務員などの適正試験ではない。


入学試験。


上位の限られた定員数のみが勝ち残れる、厳しい競争だ。

1点でも多く取らなければいけない。
ましてや社会人枠での入学は狭き門。生半可な覚悟では臨めない。

説明会場にて過去問を取り寄せ、苦手な数学や生物・化学…ほとんど基本からやり直した。


高校以来、約7,8年振りだ。
参考書も塾講師の経験が少しは役立ったか、良書を選ぶ眼なども養えていたようだった。


独学で何とか試験範囲は行けそうだ。

文系と違い、地味な暗記などはあまりなかったし、それなりに楽しめてやれた。



因みに英語はほとんど勉強していない。


過去にD.MARCH模試判定ほぼEだったが、基礎的なグラマーがほとんどで楽勝だった。

それにいちど、公務員試験で自信をポッキリと折られたが、それで自分のアタマの容量や力量を知れ、次こそ勝ちに行くための確実な計画を練ることができた。



職場の人たちにも家族にも宣言した。


一念発起し、「看護師」になること。


この気持ちは本気なんだと言う姿を見せなければならない日常・状況にした!


結果が出るまで、何も変わりはしないだろう。


だが、負けられなかった。



「このまま終われる俺ではない。
強く、生まれ変わるんだ」


しかし…何も今までが間違ってたとか弱かったと言うわけでもない。


夢は夢のままにしてしまったが、「まだ」半分情熱は残っていた。

そうだ。


音楽の夢を追い、誇れるもの、手が届きそうだったものがあったじゃないか。


成長した、という結果を少しでも出せたじゃないか。


共演者だって、例えばロシアンルーレット時代、「本田恭章」氏や元「KATZE」の高山氏、対バンしたではないか!



そして現在ZIGGY のドラマーになったチャージ氏と少しでも同じ土俵に…いたのかどうかわからないが、、背中は見えていた!


踏み込めなかったことは後悔している…


更に当時のインディーズ・ハード・ロック界隈では彼以外でも、のちに44マグナムのサポート・メンバーになったり、ペニシリンのサポート・メンバーと新バンドを組んだりする人もいた。


そんな連中と少しでも一緒にいたことは誇れる。

羨ましい…悔しい…正直ある。


しかし、情熱を半分にできてしまう程度の私。


未来を案じてしまうようなロッカーだった。


ドラムも苦痛になって、あまりやりたくなくなってしまった。。

ディシェイドのyujiさんのローディーの話も、もしそんな気持ちでやってたら失礼…やらないで良かったんだ。



人生好きな事を見つけて自己責任でしていたはずなのに…



楽しめなかった。


だからこれを機にベクトルを変えてよかったのかもしれない。。


事実上私が解雇された形となって再始動した「ロシアンルーレット」もライブを決まっていた。


応援したい気持ちは正直無かった。


故にライブには行かなかった。

「いずれ自分が地を取れるバンド作って、趣味程度でやろう…」
そう思いながら勉強に励んでいた。



…田口から連絡が来た。


何だ?

解雇したメンバーでも客として動員したいのか?


〜だがそれは、田口にとってそれ以上にプライドだだ崩れの、面目丸潰れ覚悟の内容だった。


なんと彼は私に

「またロシアンルーレットでドラムを叩いて欲しい」との依頼を言い放った。

私も田口も…牽制し合いながら、互いの近況を報告し結局、私のサポートでの1本を終えた後、ロシアンルーレットは再び活動休止に入ると言う形となった。


偶然にも7月に、私がちょうどその3年前に初めてロシアンを観た、同じく大塚レッド・ゾーンでのライブを、最期に一本手伝うことになった。。


2度目のロシアンルーレットのラストを味わってしまった…


勉強の合間で良い息抜きになれたし、私は田口には色々と感謝してる。。


なので、「やっぱりそれ見たことか、ザマをみろ」などとは思わなかった。



もうその界隈のバンドマンと私は違う人種なんだと線引をしていた。

それに金銭的にも遊ぶ余裕は無く、都内に行く用事といえば志望専門学校の説明会や試験関係のことだけになってしまっていた。



2008年明け〜


願書を出した学校はすべて学科試験はクリアした。

予定通り、当然の事だった。


本当に、バンドの集客を増やす事の方が余程難しい。。


さて問題は面接だ。
これはもう神だのみだった。


結果…2校合格!!



私は1番学費が安くて1番競争率が高い県内の公立専門学校に合格した。

私の行いが日ごろよかったというよりは、
全てを捨てて投げ打って、必死になった相応の結果だったのだ。



まだ25歳、エネルギーも有り余っていた。


〜試験勉強中に、パタパタと知り合いのバンドが解散、休止、停滞していた。

していない連中の方が珍しかった。

ロシアンルーレットも多分に漏れずそのカベを越えられなかったのか…


その中でも原因はやはりどこも、「メンバーの離脱」が多く、特にドラマーが多い気がした。


無論私にも声がかかるのも必然だった。

ロシアンルーレット時代の良き先輩バンド「ダーティー・スナフキンズ」のボーカル・福山やイエモン・トリビュート主催者の新バンド、そしてヴィジュアル系バンド・S…


「せっかく誘ってくれたんだし、今までの縁を大事にしたい。

専門学校にいる間だけ、サポート・メンバーとしてなら…

でも、ふたつみっつは無理だなぁ」


さてどうしようものか?



〜次回「専門学校時代」編突入!

人生の紆余曲折、まだまだ序の口。

音楽、運命…降りかかる試練に翻弄されるメンタル!

絶望の果てに見たのはユートピアそれともディストピア?

卒業とともに待ち受けた3.11…

まだまだ綴ろう私のソウル・ハック。


乞う、ご期待!!


続く)