2005年秋…
恋人にフラれ、仕事もバンドも早々に限界を迎えてしまった私は23歳になっていた。
同時多発に「今まで自分が信じていたこと」が無情にも見事に、現実により地獄へ落下する結果となり、その衝撃に心までも潰されようとしていた。
私は四六時中激痛に悶えたが、いつしかエンドルフィンにより中枢神経伝達が麻痺していき、脱力感や絶望感に蝕まれたが、どこかのラインで「ちゃんとせな」と踏みとどまれ、最悪の事態は免れた。
心が打ち砕かれ何もできなくなる「鬱」状態なんぞなるものかと、結果無駄にしてしまった時間を無かったことにしようと、必死に「白紙」に戻そうとしていた。
酒に逃げることもしたが、あいにく若かりし私の体力や肝細胞は心身を鬱傾向に1ミリも動かせなかった。
時は少しずつだが傷を修復し、ショックも律儀なるホメオスタシスが現状に近づけてくれた。
もちろん職場やバンド、環境も良かったことはありがたかった。
しかし夢見る心は…正直荒んだ。
理想と現実を知り初めて立ち止まった。
眼の、心の輝きは少なからず失われた。
もう、汚れちまったキャンバスを綺麗にしようなんざ思っちゃいない。。
学習塾時代のパワハラ上司・美木も勝手に関係を自然消滅させてた元彼女も…
恨んじゃいないが水に流してハイ終わり、わたしが悪うございました、なんて潔く思い切れるはずもない。
ふざけんなよ?
白のポスター・カラーで強引に白紙に持っていってやる!
やっとケツに火が付いた。
まずは職場のクリニックで取得を支援してくれる「医療事務2級の勉強」だ。
予備校に行ってればサクッと数ヶ月で取れる程度かとかかったら割と痛い目に遭った。
医療現場の専門用語がまず意味がわからない。。
試験の内容は医師の記載したカルテから診療報酬点数を導き、国に請求する「レセプト」業務。
そして患者にも対応すべく、健康保険の自己負担分を支払ってもらう会計や…
その前段階の受付や電話接遇の基本的マナーや状況別ポイントも押さえなければならない。
働きながらの勉強する時間は、思った以上にとれなかった。
しかしクリニックは残業は無く、確実に定時に上がれた。
簡単な検査案内や看護師補助、往診のドライバー、時には尿検査や便秘患者の浣腸後の片付け、トイレ掃除などもあったが、別に嫌じゃなかった。
とにかく退屈な時間があれば、ネガティヴになってしまうし、それによって義父やパートさんに気の利いたオシャベリもできない負のループになるのが、苦痛だった。
こんな私を雇って、受け入れてくれてるのに…私は、、と言った具合に。
かと思いきや、時折「躁」状態になり、余計なこと話したり、空気読めなかったりし、温厚な義父から注意を受けたり、ゴトキョン(後藤真希と深田恭子を足して2で割った年下の受付嬢)の神経を逆撫でたこともあった。
「勉強は、裏切らない」
ことはやはり骨身に、本能に染み付いていた。
バンドは、うまくいかないかもしれない
新しい恋なんて、できないかもしれない
しかし…所詮これらは「他人」がいなければ成り立つことはない。
自分だけじゃ、どうしようもない部分が出てくるし、どうなるかわからないし不確実なものだ。
気持ちだけでいっていいのは、学生までだ。
勉強という人生試合において私は
高校受験と公務員試験で1勝1敗。
(大学受験は…推薦なので不戦勝という事にしたい)
今回の資格試験は、クルマの免許の教習所と同様、
予備校というバックアップもつけといて落ちるわけには絶対いかない。
失点とってたまるか。。
夏が終わり、クリニックを紹介してくれたサークルの後輩(現・義姉)から連絡がきた。
「新しい仕事、どうですか?
医療事務も頑張って下さいね。
私も取りましたから。
…ところで先輩。
大学の文化祭出ませんか?
OBタイムで、またジャンヌ・ダルクのコピーで出ましょうよ」
私は秒で快諾。
ジャンヌ・ダルクは名実日本を代表するハード・ロック・バンド。
義父に幼少期からディープ・パープルやクイーン、キッスなどカーステで鍛えられていた姉妹は、邦楽の趣味も自ずとその類が多かった。
私も大好きだった。
もちろん、文化祭に出たい理由はそんな事より…
「フラれた彼女にまた会える。見返してやる。あわよくばカッコいいところ見せて振り向かせる」
そんな淡く、危ない感情が再び引火したのであった。
〜一方「元」本命バンド・ロシアンルーレットであるDEAD FLOWERSも、年末にライブを一発入れる事を目標にスタジオに入り、新しい要素や試みを取り入れていった。
横ノリのヘヴィなミクスチャー。
ファジーなグランジ。
ストレートにがなるガレージ。
メロディやギターのリフに明るいロックンロールの爪痕を残し、
基本ダークでニヒルな雰囲気のビジュアルや世界観というコンセプト。
デモCD-R制作も並行させた。
ストリートに出て、ナナハンやVIP車を無断でバックにしてのジャケットやホームページ用の写真撮影。
田口は一世風靡セピアのようなスーツ。
樋山は黒のライダース。
私は紫のスタジャン。
伸びたウルフ・カットヘアーやダメージ・デニムも流行になってた頃で
当時、私の奇跡の一枚は何人かの女性「マイミク」に絶賛された。
CD‐Rジャケットも、ステージ的にもドラムの私が中央となった。
基本田口がメイン・ボーカルだが、私のオリジナル曲も採用され、歌も歌詞も私が担うこともあり、叩きながら歌えるシュアー社のヘッド・マイクロフォンを購入した。
だがしばらくはスタジオのリハーサル録音演奏を聴いて、「イマイチ何か足りないコレジャナイ感」との戦いだった。
ジャンヌ・ダルクのコピーで発散させられたのでドラムへのモチベーションは高く、出来も良かったが、文化祭じたいはあまり楽しめなかった。
もう卒業引退したOBは正直蚊帳の外だったし、現役生以外はほとんど明日の仕事を気にしたり、打ち上げなど出られる雰囲気ではなかった。
私はひとつ年下の四年生の輪に入って参加したが、やはり元彼女がいると思うと気が気じゃなくなった。
「もう戻れないか…」
この時やっと、私は彼女やサークルという夢から卒業できたのかもしれない。
立ち止まって、どん底に落ちて時間無駄にして…
ボロボロになっちまったが、必ず這い上がってみせる。
DEAD FLOWERSのライブで、この1年を締め括ってやる!
それから吹っ切れた私に、再びミューズが微笑みかけたのだった。
〜戦友バンド「ダーティー・スナフキンズ」主催の渋谷ルイード出演が12月に決まった。
同時期に「シュリーカー」という解散間もないロック・バンドのボーカル・サハラ氏からロシアンルーレット加入の打診があった。
なんとシュリーカー、ZIGGYの森重氏プロデュースでアルバムを出しているような実力派。
年明けにいちどスタジオで…という話になった。
当時、ツィッターなどまだ無いし、私達も自分らに必死だった為、ZIGGY周辺の情報や近況はあまり分からなかった。2ちゃんなどでは再びメンバー不仲説が囁かれていたのだろうが…
そして、、
何かが、再び幕を開ける気配を感じた。
それは海に沈んだはずの月の光を信じて待っていたまさに狂気の奴隷たちのようであった。
2000年に活動休止になったLUNA SEAの河村隆一氏とギター・INORAN氏によるプロジェクトが始動。
それは再び
「作りかけたパズルを抱く」私の胸中とリンクしてると…感じざるを得ないタイミングだったのだ。
一寸の迷いなくデビュー・アルバムと一緒に、東京国際フォーラムのライブ・チケットも入手した。
クリニックでも、医療事務取得を見込まれてかメインで受付・会計をするようになった。
地元なので時折、小中学校の同級生が受診しに来た。
…ある寒い午後のこと。
「あ、久しぶり〜
ここで働いてるんだぁ」
ある昼下がり、受診しに来たのは
中3でクラスが一緒だった女性だ。
当時から明るい性格でルックスは良かったが、確かオツムはあまり…
まぁほとんど会話したことないし、適当に挨拶して会計を終わらせようとした。
「じゃ、お大事に…ん。
⁉︎」
彼女は会計後、自らの携帯電話の番号を記した紙を私に差し出した。。
「じゃあ、またね!」
キョトン…
隣から
「あー、みちゃった。。
連絡、するんですかぁ?」
「はは…いや、どうしよっかな?
ちゅ、中学のクラスメイトなんだけどさ…」
「へぇ、いいなぁ〜」
それは数ヶ月ぶりに交わしたゴトキョンとの会話だった。
一時の喜びや嬉しさとはいえ、またこうも公私共に同時にチャンスというものはやってくるのか。。
まだ干支2周もしてない私は、やはり単純に浮かれてしまったのであった。
続く)