〜20年前、ろくに就職活動せずに求人誌で見つけた学習塾の講師に就任した私。


「今でしょ!」が跳ねる10年前
まだまだ残る、昭和の中小企業の風潮。
ベビー・ブーム二世にも容赦なく…

上司からのパワー・ハラスメント、時間外残業、、
当たり前だった!

昔でしょ!?

22時定時退勤したとしても、結構な頻度で本社近くの別棟に招集された。

社員講師が数十人集合し、山積みのDM作業がはじまる。新規獲得のための、いわば営業。


その薄暗い空間は丑三つ時頃からカラオケ居酒屋と化した。

もちろん飲酒運転でそれぞれ帰路へ…


モームリ?


いやまだまだそんなことよくある。


そういう時代。


その建物の正体は一体?

送別会もそこでやっていたが…


建前は会社としては、どのような名目・用途だったのか?

今となっては闇でしか無い…


しかし…そんなことしてる奴らが小中学生に何ゆえ、社会人として何を教えられるというのだ!?


本当に昭和・平成の「時代の良くないとこ取り」!


私は世の中の現実を実感した。


社会、経済、組織、人間、教育、未来…

あぁ、全て真っ黒なんだ!


絶望と落胆は予想以上。。

何より残念でやるせないのは、メラトニン不足で青白く、自律神経失調気味の体育会系社員らだ。


「勉強を理解させる喜び」や「教えるテクニック」よりも、「新規入会生徒取得」や「点数水増し(英検や漢検は、開かれる学習塾が採点まで委ねられる)」など、ガメつく、手を汚してまで会社から評価されることを良しとする空気や風潮だったのだ。

そんな企業のコマでは、私の兄くらいの歳の「美木」という男が直属の上司になった。

彼はこの春に戸田教室の室長に昇格。
部下は新卒の私だけ。

そんな体制の中もあってか、彼は早速病んでいた。


アルバイトの大学生が帰ると、途端に毎日のように私は美木から心無い態度をとられ、暴言を浴びせられた。

まぁ仕方ない。

ストレスは私より大きいのだから。。


美木との人間関係ばかりが悪いわけでは無かった。

業務内容だが、塾講師とはもはや名ばかり。

夜中のDM営業作業から教室内の清掃まで全てやらねばならなかった。

もちろん勤務時間外だ。


11時には出社。
私1人で3教室、机をパワー・プレイでどかし、チマチマ消しゴムのカスを集めては捨て、モップをかける。

ワイシャツ汗だくで床に大の字になり数分間気を失い、
終わればトイレ掃除、夜はゴミ出し、エアコンのフィルター掃除も…基本下っ端社員が行う。

本社の事務員はファックスでしか存在を確認できなかった。

毎日昼間からそれらをこなし、夕方からの授業の確認や掲示物作業をする。


13時過ぎ、
美木が不機嫌そうに出勤してくる。

「おはようございます」

…平気で無視される。


本社から支給されたプリントや備品の入った段ボール箱をデスクに叩きつけるように置き、挨拶の返事もせず

私を睨みながら


「ねぇ、アレやったの?
…アレだよ!

は?
なんで、やってないの?

はぁ、ありえねー」


ダンッ!


と壁を殴る。

そこではじめて就業ゴングが鳴るなんてことはザラにあった。


私は美木の威圧など怖くは無かったが、心地よいわけは無かった。

美木は埼玉大学出身で、体育会系。
北越谷でショット・バーを営んでいたネオ・ロカビリーを一緒にやっていた坂本と少し似ていた。
2人とも良いガタイに反して内心は臆病で繊細だった。それはなんとなく分かっていた。

それこそ小中学生で教師から体罰を受けていたのが当たり前だった時代を生き、
ガソリン・スタンドのバイトのときには新井という売れない俳優風情に蹴られたりしたこともあったので、
美木のそういった「立場の弱いものに対する八つ当たり」のような言動は時代錯誤も甚だしかったし

「上司としてどうなのコレ?自分で評価下げてるようなもんよ。
今の時代、偉い人から評価されたいなら下の者に優しくすればいいのに…
効率わるくないすか?」

と、ひろゆき氏のように冷静に見れた。


実際に今現代、そういう時代にもなった。

そして私自身も社畜になる気などサラサラなく、ロシアンルーレットのライブが決まれば平日だろうと平気で休みを美木に申し出た。


試用期間?有給?
社会人として?新人として?

…知らん。


無知ゆえ無敵の度胸。
あまりにも堂々としていた。

故か、いまZ世代などに対しあまり苦手意識も無く、むしろ根本的に強く共感する部分もある。

どっこい美木としても
「いつか大学の後輩とお笑いを本気でやりたい」という夢があったようで、私の音楽活動に対し理解はあった。

そういう野心やスロットなど好きな「一発当てろ」的なところなんかは、むしろロックな感じで好感を持った。

いちど自宅へ車で送ってもらったこともあったし、酒も好きで大宮のショット・バーに連れてってくれたし、時には夜中の教室でバイトの子たちを交え楽しく飲んだりもした。


美木は躁鬱…状態だったのかもしれない。

髄からクズのような男ではなかった。


こういうギャップにコロッと嵌り、共依存する女性がいるからDVなどの問題は現代にも無くならないのか…

しかし私の当時の若さと夢へのモチベーションをもってしても、この学習塾講師の正社員でいる気持ちは、せいぜい1か月継続させるのが限界だった。


〜さてロシアンルーレットは4月に自主企画イベントを打ち、対バンはヴィジュアル系から元・セクシー女優のバンドまで。ゲストとして、俳優・もてぎ弘二さんがレフェリーを務めるプロの格闘技・シュートボクシングの選手をステージにあげてしまうという「何でもござれ」なテーマで催された。


勢いよく2005年度初めに会心の一本になるはずだったが…


結果、主催した我々ロシアンルーレットの動員は、出演バンドの中で最下位に近かった。


まずは「S」というヴィジュアル系バンドはやはり固定ファンがガッチリとついており、クセや主張も強い。
ファンもいわゆる「推し」のためなら、多少場違いなハコでも最前列でバンドと一緒になり一心不乱に盛り上げる。
フロアは独特の世界観となっていた。

そしてイエロー・モンキーのトリビュート・イベント繋がりのグラム・ロックバンド「W」は今回が結成後初のライブ出演。
ビギナーズ・ラックか、お友達がたくさん遊びに来たようだった。良かったね。

例のセクシー女優の名は「冴島奈緒」さん。

私の上の世代の男性はかなりお世話になったようだ。
おぢ様ファン多数来場!

ほか、実力と経験が豊富な「ダーティー・スナフキンズ」は確かレコ発だった。

相対的な敗因は以上。。


絶対的な要因はというと…

多くの来場を期待していた私の大学時代の後輩たちは、、
ちょうど春の新入生歓迎ライブ期間だった!


絶望感と悔しさややりきれなさ、情け無さだけが残った。

ライブ自体は、トリの予定調和で盛り上がったが…
イベント全体は、ロシアンルーレットとしては消化不良のまま終わった。


「なんかバンド、微妙な雲行きだな…」

いや、今までが順調すぎた!

不振な時期が来ただけだ、と落ち着かせたが…

はじめた塾の仕事も思った以上にキツく、彼女との物理的な距離と会えない時間が膨れ上がり、互いの熱は、夏の訪れを前に冷えてしまう。


ホームとしていたレッド・ゾーンで見事コケた後は、越谷イージー・ゴーイングス。

私にとっては第二の故郷での凱旋ライブだった。

なんと、運命のイタズラか…

15歳から付き合いのある、ベーシスト・河原のバンドとの対バン!


私と共にLUNA SEAやZIGGYを目標とし、ハイ・ティーネイジを共に過ごした彼は、ロシアンルーレットのリハーサル後、満面の笑みで駆け寄ってきた。


「よかったな!
拓也の理想バッチリじゃん!」

と自分のことのように喜んでくれた。

しかしハッキリ言って動員は空振り、ステージは空回りが続く。


半年かけて掴んだと思われた4人のグルーヴや化学反応も…やはりハリボテだった。。

そしてどうやら田口は音楽面でも行き詰まりを感じ始めていたようだった。

上岡と私が加入して新曲のプリ・プロもスタジオで時々していたのだが、いまいち手ごたえがないままレコーディングを迎えた。

結局上岡が持って来たデモなどは、歌謡曲要素が強く、大したアレンジが施されなかった。

ちなみに樋山はこの曲を好まなかった。
もっとモトリー・クルーみたいなハード路線でいきたかったようだ。


この辺は核となる音楽的な話なので、前向きに舵修正を取ろうと思えば取れた。

しかし、決定打となったのは…

高田馬場エリアでの楽屋での樋山の一言から始まった。。


更に、私が務める学習塾では
道路を挟んで更に1教室、増設することが決まった。

「え?で、管理は現状のまま?
事務社員無しで?」

ハードだけ増え、効率よく回すシステムと絶対的なマンパワーが無いままの無謀な先行投資。

そんなもの利益より先に破滅を招き生むだろう。

そんなことも読めない経営術に呆れた私は6月9日、忘れもしない。


美木を通し、社長へ直に7月いっぱいまでの退職を願い出た。



結局ロシアンルーレットと同じ。。


根本的なものと向き合わず、ハリボテで押し切ろうという何とも危険な判断。

数回使用した有給届け同様、私の堂々と晴れ晴れとした胸中提出された辞職届は、無事ブラック中小企業に受理されたのであった。


(続く