〜2004年秋、理想的なロックを追求したインディーズ・バンド「Russian Roulette」に加入した私。


リーダーのギタリスト・田口の練るバンド戦略や交渉術、それとボーカル・上岡の歌唱力と天性の華が幸先「良すぎる」スタートを飾ってしまった。


実力や固定ファンというものが付かず、すべてハリボテで勢い任せで突っ走ってしまう。

実際ライブ後の打ち上げに参加したお客さんがメンバーより少ない…という日も当たり前だった。


それなりのハコで、私の大学の友人などが最前列で元気にステージを盛り上げても、、いまいち次の次元や動員には繋がらなかった。


…この事実がなぜ虚しいものか、若いバンドマンの読者様がいらしたら、ご理解はいただけないだろう。。



理由は時代が物語った。

私もしくはその上の世代のバンドマンにとっては「打ち上げ」というものは、もはやライブとセットの当たり前に開かれるものであった。

もはや誰が未成年?誰がドライバー?誰が終電…

関係なく半強制的に参加が促され、行われた。

メジャーや人気インディーズともなれば居酒屋貸切で酒池肉林のどんちゃん騒ぎ。

ファンとシケコミ持ち帰り、メンバーや他のバンドとの乱闘…全然珍しいことではなかった。

だがロシアンルーレットは元々そういう体質と縁が薄かった。

上岡は真面目。田口は割り切り、明日の仕事を気にするタイプ。
フリーター樋山や大学生の私は基本貧乏だった為だ…

それでも田口の頭の回転は速度を増して攻めの戦略を企てた。


「拓也の大学の文化祭に出ることはできるかな?」

もちろん私も乗り気で後輩のサークル現・部長に打診。
彼は浅井健一氏に憧れるギタリストだが、ドラムもやっており私を神と崇めていたので言うまでもなく出演が決まった。
まぁもともと文化祭では毎年OBタイムと言う引退後の部員のための時間が設けられていたのもある。

余談だが、現在の私の義理の姉も同サークルに所属。
同じく部外でバンドをやっており、池袋ロサなどホームに「coma(コーマ)」というヘヴィ・ロックをやっていた。


文化祭は、comaとロシアンルーレットのダブル・ゲストと言う形にはなった。

当日には俳優の茂木さんも遊びに来てくれた。
リハーサル無しだったが、後輩たちに「卒業しても俺のロックな生き様を見てろよ」と言う姿勢を見せつけてしまった。

そんな調子で一応大学の授業も出て、家に帰ってひと息ついては原付で秋葉原へ赴き、夜通し蛍光棒を振りまわしては、週末は地下スタジオでドラム・スティックに持ち変える。。

数年先、世間から注目される「ヲタ芸」と「太鼓の達人」を誰よりも先取り両立させていたのであった。


2004年の暮れが近づく…


卒業もできそうだ。

バンドも彼女ともうまくいっている。

最高の状態で年末を迎えられた。


警備員のバイトは寒さも厳しく、なにより退屈だったけど、現場によっては缶コーヒーくれたり作業班によってはトラックで夜中実家まで送ってくれた。
皇居付近や白金高輪なども回ったが、面倒見の良いブルーワーカーの棟梁から差し出された缶コーヒーは粋な人情味が増し、懐と心を芯まで温めた。

俺も頑張ろう、と思えた。

強いて言えばもう少しラクで、せめてあったかくて、座れて、何か片手間にできる…バイトがよかったが(本当に世の中舐めてる)

なかなか天国みたいな仕事はそうそうないんだなぁと諦めがついた。


〜すると不思議と、実は真面目な私の人格というものが発動。
いつもは過激な思考や言動に結局土壇場でブレーキをかけるのだが、今回は極端にあらぬ方向へアクセルを踏んだ。


「…やっぱ、フリーターじゃなく正社員に就職したほうがいいかなぁ

どうせ同じ時間、苦痛を感じるなら…

ロシアンルーレットの活動ペースにも合わせられればオーライでしょ」

まだ一人暮らしする気もなかったし、色んな意味でダメならダメでいいと思い、また求人フリーペーパーを駅前で数冊かき集めた。

私の就活はノーコスト、そしてトゥー・トラスト。
音楽誌「プレイヤー」でロシアンルーレットと巡り逢えたこともあり、私の神の手により選ばれた掲載記事は必ず良い未来を導き出すと信じてやまなかった。


さて、一応は腐っても文学部…

出版や雑誌編集社などに興味があったが、結局「営業」「歩合」のニオイを察知するものばかり。

リスクは極力避けた。

「うーむ、なかなか無いなー
やっぱり就活ちゃんとやっとけば良かった!」


…なんて死んでも思うものか。

認めるものか。

大学の就職科なんて世話になるものか!


もとは「英語の教師」になりたくて入った大学である。

しかし教職課程に進むための実習はもちろん、とるべき単位もとらず、早々に諦めた夢かのように思っていた。


待てよ?

「あ、じゃあ学習塾でいいじゃん。夜勤みたいなものだし。給料も悪くない」


「髪は染めたり伸ばせないな…

でもロシアンルーレットはボーカルの上岡がルックス担当だし、俺が派手派手になったところで別に…
最近ZIGGYの松尾さんもめっちゃ短髪になったし」

正直ドラムに関しても、向上心は既に無く、今の技術でロシアンルーレットのロックの世界観は充分表現できると思っていた。


これだけは断言しておくが、ロックや音楽そのものに関しては貪欲のままであった。

ZIGGYや森重樹一さんのソロやサイド・プロジェクトのThe Dust & Bonezのライブは田口や樋山と行き、ロック色が薄くなった中島卓偉さんの新譜にも寧ろはまったし、我が街にツアーに来た吉川晃司さんのライブにも行った。

やっぱりどこかロシアンルーレットに100%どっぷり浸かることができなかったんだと思う。


〜そして私はトントン拍子に無事、埼玉の学習塾に就職が決まったのだ。


公務員試験惨敗からの一発合格である!


ロシアンルーレットは私が加入してから半年経った。
田口も上岡も手に職を持っており、絵に描いたロックミュージシャンを地で行く、夢見るフリーターは樋山だけとなった。


残念ながら動員数とは相関しなかったメンバーのテンションは、この時がピークとなってしまった。


(続く