…時は2004年夏の終わり。
私立文系大学4年
この時には深夜スーパーの夜勤アルバイトも適当な理由をつけ辞めていた。
公務員試験に惨敗し、一般企業に就職する気が皆無だったが
次のバイトを探さねば…
しかし、なぜ大学時代に音楽の夢を追いながら、彼女もいて遊ぶ時間と金があったのか。
若さゆえ健康を担保とし、ロックを思う存分やるために、学業と共にアルバイトは当然の義務としていた。
まぁ、寝たり休んだりそれなりにしていた。
テレビなど俗物にはほとんど触れなかった。
たぶん講義中とか電車移動中とか小分けに睡眠しては、ある程度は体力が回復してたのではないか。
…ベルセルクの主人公か。
引退したが夏冬とサークル合宿へ後輩の応援しに同期とレンタカー借りて新潟県まで駆けつけたり、鹿児島県は与論島への卒業旅行の積立まで滞りなくできてたのが不思議でならない。。
当時所有していた携帯電話はいまや隠居上皇・松本人志氏や浜崎あゆみ女帝が広告塔だったツーカー社。
docomoやauほど高くはなかったので選んだ。
一部パケットをバカバカ使える富裕層のみがポータブルにインターネットを使用していた。
しかしYouTubeなどもちろん無いし、面識の無い不特定多数と知り合えるなんてことは、当時はマイナーで、怪しい「敬遠されがちな出会い系」くらいだった。
私は移動中も、モバゲーなど興味はなく一切やらずメール以外で携帯をいじるのは電車乗り換え検索くらいで、あとはMDウォークマンを聴いていた。
あとは、父の車を借りてCDやFMラジオを聴いていた。
平日は父は電車通勤なので、ほとんど私が乗り回した。
マツダのユーノスという白いセダン。
ガソリンスタンド時代の社員の方にも「良いクラスだねぇ」と褒められたグレードらしかった。
…どこのロックスターか。
さて、バイトだが、大学四年ともなると応募しても電話先だけで門前払いされることもあり、少し焦った。
それにRussianRouletteの加入に向けてやはりZIGGYやイエモンなど理想とするバンドのヴィジュアル・スタイルとなると…
長髪・金髪・パーマ、時にはタトゥーなど当たり前なので、接客業はまずないと思っていた。
なので必然的に肉体労働…しかしそんな根性、私にはなかった。
懲りずになるべく楽に効率よく稼げる手段である夜勤バイトがいいな、と探し選び採用されたのは足立区にある警備会社だった。
基本的に東京都内の電気工事現場の周辺の交通整理。
ビルや施設などのガードマンはあまりやらなかった。
天下の慶應義塾大学に派遣された時は、道ゆく同年代の学生に「ケッ!エリートが」
と妬みながらも、ラーメン二郎本店に流れる猛者どもを目にしては、なんとなく親近感を抱いたりしたのものだった。
あとは秋葉原ばかり。
「電車男」の前年。
これから更に栄え始めると言う時期。ちらほらメイド喫茶や地下アイドルの先駆けのようなビジネスの少しいかがわしい雰囲気もあった。
ちなみに運命的に、ロシアンルーレットのリハーサルのあるスタジオも、秋葉原にあった。
夏休みが明けてからも客としてロシアンルーレットのライブは数回行った。
原宿ルイードではイエロー・モンキーのトリビュート・イベント。
ボーカルの上岡がゼブラ柄のふわふわのロングコートを着てステージに立っていた。
8月の終わり頃で、かなり暑そうだった。
そして高田馬場エリアで知ったS(略)と言うビジュアル系ロック・バンド。
ボーカルがZIGGYの森重さんのようないでたちでサックスを吹いており、これまた衝撃的だった。田口に「この人ビジュアル系だけどカッコイイですね!」と思わず言ってしまった。
歌のレベルは正直上岡の方が上だったが、やはり都内にはこういう対バンがゴロゴロいるんだと思うと、さらに私の期待は増した。
ちょうどその頃、上野に私服を買いに行った時も、池袋ロサというハコで元LAガンズのフィリップ・ルイスの前座をしたと言う連中にも知り合った。
この時期、私は大学四年生後期。
適当に授業出たあと東京都内フラフラし、夜中に金を稼ぎ、ちょっとした人脈も作っていく…電車に乗りながらカタカタとEZwebでバンドのHPや掲示板をサーフィンし閲覧していた。
相変わらず週一で彼女とも過ごす時間があった。
クリスマスにはディズニーで浮かれた。
この時期が最後にして、人生の頂点だったかもしれない。
まさに現実という壁に直面する直前の夢の走馬灯だったかもしれない。
〜そして夢への第一歩であるロック・バンド「ロシアンルーレット」への加入が正式に決まる。
更に調子に乗って行動範囲を広げ
未来への伏線も次々と仕掛けられた。
まずは私のロシアンルーレットとしての初・お披露目ライブは、大久保のライブハウスにて…なんと東京MXテレビのインディーズ・アーティスト紹介番組の収録であった!オネェ・タレントの植松氏が司会。アシスタントのアイドルの手にボーカルの上岡がキスをしたり、やりたい放題したためか随分と編集カットされてしまった。
更にJR東西線に揺られ江東区のFMラジオ局にも生出演した。もちろん飲酒状態で。。
ロシアンルーレットは特別名前が売れているバンドでもなかったが、田口はどんどんメディアを利用しようと策を立てていたようだ。
そして憧れの大塚レッドゾーン出場。
これは通常ブッキングだった。
対バンも最高!
まずはluxury(ラクジュリー)
レッドゾーンの箱推しバンドというやつだ。
イエロー・モンキー吉井和哉さんのような美しいボーカルの人。曲もかっこよかった。
最前列に常連客と思われるお姉さんたち。
その前年、モヒカン頭をし、パンク寄りの激しいロカビリーバンドで、おどろおどろしい曲で激しいプレイをし、汗とタバコの匂いとモッシュやシャウト、乱闘が当たり前だったライブ・ハウスのフロアにいるオーディエンスという認識はこの時ガラリと変わった。
そして「ミルキースイート」
関西からのバンド。
ギター&ボーカルの方はなんと、私が20歳で心酔した「すかんち」のローリー寺西氏の弟子であった!
他スージー、ライダウンなど、グラム・ロックやハード・ロック…私の好む匂いプンプンだった。
ちなみにラグジュアリーは現在も活動されている。Amazonミュージックで検索できた。
当時、ウチに加入しないかとハンティングされかけたことがあったが、、
まぁ話は流れた。
彼らの主催するイベントでは「本田恭章」なるソロ・ミュージシャンがゲストだった。
…どこかで見たことある名前。
そうだ!
高校時代10数年前のミュージックライフやロックショウなど中古本を漁っていた頃。
洋楽推しである両誌にしては珍しく、たまに見かける派手な格好と中性的な顔だちで、Hanoi Rocksのマイケル・モンローなどと一緒に並んで写ってたりしてた日本のミュージシャン…
すげぇじゃん!!
彼の曲など詳しい事は存じてなかったが
1980年代初頭、尾崎豊・吉川晃司・坂上忍…らと「四天王」のようなポジションだったようだ。
年末には渋谷のルイード
新横浜サウンドホール2デイズ…
ここは解散間もなくシャムシェイドのHidekiさんのバンドの拠点の一つだったようでかなりアガった。
もう私の中ではどんどんと夢へつながっている感覚がした。。
(続く