さて
世の中何事も…全てはタイミングである
導かれるべき道に誘われる
…適材適所?自分はこの程度?
ならばchange!
失敗を恐れてはいけない!
自分本位に前向きに、省みて軌道修正
時を無駄にしないこと
人生は怠惰な己との闘いだ
千里の道も一歩から…
はい、つーことで久しぶりにポエムから入ったことをご容赦いただきたい。
さて、前回は大学四年時の公務員試験への挑戦〜失敗を振り返ったわけだが、一概に無駄な徒労とまでは言わずとも無理難題・無謀以外のほか何者でもなかった。
そうまるで岸田内閣に円安ハイパー・インフレ直前の現日本に景気回復を期待するかの如し…
当時は奇しくも小泉政権がいろいろ壊してしまったお陰さまで突入した就職氷河期。。
ならば温室育ちのまま大学卒業してサクッと公務員にでもなって人生楽勝モード…を夢見た私。
時間とお金を一時的に犠牲にして試験勉強しても、やはりそんな見え透いた根性と方法論では…
完膚なきまでの敗北を味わう結果に終わった。
それは三國志でいうところの、無双豪傑猛将の代表格、呂布・奉先に立ち向かう足軽兵のような状態だった…
呂布の振りかざす大矛の一筋で容易く、もしくは断崖絶壁をも駆け抜ける豪馬・赤兎馬の馳せる蹄の風圧のみすらで、文字通り蹴散らされてしまい、大河・揚子江の奥底の藻屑となるが如くの呆気ない最期だった。
試験後しばしの虚無感に苛まれていたが、、
とっとと蹴りつけて、過去の自分のこめかみに向けて訣別という引き金を引くことにした。
だが輪廻転生!
魂は高みを諦めなかった!
やはり私の次なる取りし術はロック!
〜大学四年の前期にして、焦りつつも卒業単位を取得しながら私は音楽雑誌「プレイヤー」などのバンドメンバー募集・加入希望ページと
そして新聞折り込みのアルバイト求人広告を眺めながら、人生最後の夏休みの日々が始まった。
とりあえず24時間営業の某ディスカウント・スーパーの夜勤が決まったが、、数日で音を上げた。。
やはり髄まで性根が腐り始めてしまっていた。
ガソリンスタンドでの夜勤の甘さとヌルさが染み付いてしまっていた。
しかし大学サークルはもう引退状態で、時間もあり余り、スーパーは夏休み中だけ…と決めて我慢した。
正直秋学期もギリギリで授業に出なければ卒業は危うく、実際もう少しラクなアルバイトが都合良かった。
サークルの同級生・悪友のパンク・ガレージ・ロック・ギタリストの荒井は、要領の良さでパチンコ筐体メーカーに内定。
毎日ゲームとバイトとスロットを打っていた。
公私混同してて面白い、
そういう部分で敵わないロックな奴だった。
基本的に真面目な他の同期はというと
誰も内定はもらえておらず順調とは言えない状況…
それからよく荒井とは飲みに行った。
互いに彼女はいても、飲み相手はなかなか見つからなかった。
後輩たちは合宿前で忙しく、引退すると思った以上に暇だった。
そんな荒井とは知り合った頃以上に仲良くなっていった。
サークルでは当初は一緒にピストルズなどコピーはしたものの、互いに別の先輩グループに懐いていたり、進級したら途中退部者を出さないために後輩らのケアや面倒に、主に荒井と私が分担してまわっていた感じだったので、あまり彼とはプライベートで連んで過ごすことはなかった。
しかし現役中荒井は、楽器は違えどやたら私に演奏技術や経験といった面でコンプレックスを抱えていたように思えた。
逆に彼の破天荒さは…私には無いもので、少し羨ましかった。
その数年で彼もギターの腕を上げ、最後のライブでは一緒にエックスやメタリカをコピーしたし、私は皮肉にも何より「就活する気がない」ような破天荒な奴になってしまった。
晴れて荒井とは分かり合え、周りからホモ疑惑もかけられた程に仲良くなってしまった。
余談だがそれは、私が結婚する直前まで続いた。
一方、高一の夏から約5〜6年もの間ガッチリとリズム隊バッテリーだった河原とは…
結局音信はフェード・アウトしてしまう程度の絆で、試験の結果すら伝えることも無かった。
大口叩いて、バンドを止めたりバイトを辞めたりしておきながら、結果を出せなかった事に関して小っ恥ずかしかったことが大きい。
河原としても、わざわざ連絡して悲報を伝えられたところで困惑したはずだ。
学歴コンプレックスがあれども、さすがに全てを失った元バンドメンバーに「ざまぁみろ」とは思うとしても、実際なんて声を掛ければ良いか、戸惑うし考えるのも面倒だろう。
共に情熱を捧げたオリジナルのバンドが消滅し、バイト先が一緒になった時点で…
今まで見えなかった互いの嫌な部分が露呈し、更にギスギスと関係は修復不可能になっていったのだ。
正直、良好な関係を取り戻したい理由も余裕も無かった。
また、バンドを一緒にやったり、サポート・メンバーとして関わるくらいなら、遠くから彼らの健勝を祈るだけにしたかった。。
ならば荒井と好みは違えど一緒にロックをプレイしてた方が…
いや、こればかりは悔やんだり振り返ったところで何も実りはないことだ。。
深夜スーパーのバイトでは、中学時代の同級生がいて、地元の数人の噂を聞いた。
デキ婚、引きこもりやニート、宗教にマルチ勧誘…
今昔珍しくはない事だが、これもまた私の世間知らずさにとっては、何よりリアルに感じた。
まもなくそれら世の中が漂わせるムードや将来への不安といったものは頭の隅にわずかにはあった。
改めて「ロックに人生かけよう」と
高校入学から久しく心身を傷めながら、ある程度極めたテクニックでハードに熱く、ハートで叩くスタイルのドラム・プレイを売り出そうとした。
雑誌「プレイヤー」にてメンバー募集記事を載せていたあるバンド宛に加入希望のメールを、私の熱いメッセージも添えて送った。
メールの相手は田口といった。
「当方、大学生。ロックンロール全般、特にZIGGYを好むドラマーです。宮脇JOEさんをリスペクトしておりツー・バスもいけます」
田口は即、私宛にMDとVHSをレターパックで送ってくれた。
「こんど、大塚でライブやるから観にきてよ。送ったビデオのボーカルがトンで(失踪した、という意味)新しいヤツが入ったばかりでさ。ドラムはヘルプなんだけど」
私も即予定を調整し、観に行かせてもらった。
互いに連絡のレスポンスの速さ、フットワークの軽さ。
これ当たり前!
だらしないとかじゃなくてヤル気の問題!
MDデモも好みの音!ボーカルも新しい方が録っており私より確実上手い!
(ビデオの方はルックスは良いが歌は…)
さて、ハードルはダダ上がり状態。
私も是非とも加入したい気持ちでJR山手線に揺られ大塚駅に辿り着き、、
田口ら「Russian Roulette(ロシアン・ルーレット)」のメンバーと本番前にジョナサンで顔合わせすることになった。
真夏ということもあり私は短髪で、足にはサンダルを履いていたが、ハノイ・ロックスの再結成ツアーTシャツと赤いベル・ボトムという、ある程度は主張した格好で向かった。
現れたRussian Rouletteのメンバー3人は、埼玉の22歳大学生から見て、本番前の空気もあり、勢いある派手なオーラを放っていた。
ギタリストの田口は長髪で、おそらくメイクしてたからかサングラスをしながら、淡々と事務的な質問や確認ごとをしてきた。
少々とっつきにくい印象だったがリーダーとして、多少マッチングの手ごたえがあっても、ある程度は斜に構え、不安要素を予め排除したりスクリーニングしなければならないという責任感と必要があったのだろう。
同じく長髪のベーシスト・樋山は金髪で上腕には鷹のタトゥーが彫っており、純粋に眼を輝かせ、田口よりは私に心を開きながら、ニッコニコと好きなロックや洋楽バンドの話をした。
加入して間もないボーカルの上岡はまだ大人しかった。
短髪だが整った顔立ち、華のある雰囲気。
「はい。じゃー今度スタジオで。
今日は客としてステージ観てってよ」
パスを出してもらい入場した
大塚RED ZONE(現・HEARTS plus)も感覚的に心地よいライブ・ハウスだった。
思えば高校の時に、浦和ナルシスなどのブッキング・マネージャーから
「今時モトリーみたいなバンドか〜…いないねぇ」と言われたり、
ネオ・ロカビリーバンド時代、新宿ドクターや高円寺2万ボルトといったパンクやハードコア色強めなハコは…
何となく私にとっては場違いだった感が否めなかった。
ここはまさにREDな色調の内装。
原色は一歩間違えると、下世話な感じになるが、それがかえって私の趣味に近かった。
ドクロとかホラーとかボール・チェインとかサタニックなデンジャーさよりも、バラとかファーとかリップとかのユニセックスなアブノーマルさといったものが性に合うのかもしれない。
リビング・デッド系よりもロッキー・ホラー・ショウやヘドウィグ・アンド・アングリーインチ、ベルベット・ゴールドマイン…
一般的には、きっとたいした差なんて無いのだが。。
壁に貼られたバンドの告知フライヤーやメンバー募集のイメージ画像も、ヴィジュアル系とは少し異なる派手衣装&メイクを施すグラム・ロック・バンドが多い!
もろにイエロー・モンキーやローリー寺西さん、ZIGGYに影響されてるのが一目瞭然。
「なんだ、俺の理想…いるじゃん!あるじゃん!」
「ここに生息してたのか、絶滅危惧種!」
と、言わんばかりの衝撃は私を高揚させた。
RussianRouletteのステージングは予想通り!
ZIGGYよりパンキッシュなサウンドだが、上岡のハスキー・ボイスがブルージーさを出しており、私はヘルプ・ドラマーの方がゴールデン・ボンバーを数年先取りし「当て振り」してることさえ気づかなかったほど、、リスナーとしては…?だが、ライブ・オーディエンスとして、ロックンロール・ファンとして大興奮し、更なる加入への熱意を抱いた。
翌週にRussian Rouletteのリハーサルに一度参加することに。
MDの4曲を覚え、聖地・秋葉原のスタジオへ。
オフの日でも彼らの私服や小物はいちいちアニマル柄のブラウス、フワフワ、ジャラジャラしたアクセサリーなどロック仕様で、面白かった。
決して痛い感じではなく、サイケ風な古着からトルネード・マートやジャン・ポール・ゴルチェだったり、好みのセンスだった。
緊張もそれなりにしていた。
なんせ坂本とのネオ・ロカビリー・バンドとは違い、初めての「ストライク好み」のオリジナル・バンド。
ドラムに対する緊張ではない。
このバンドに所属すること自体、そして活動することへの期待やこれから体験する楽しみにワクワクしながら叩いたドラムは、やはりフワフラ浮ついていただろう。
「とりあえずZIGGYっぽいアレンジで叩けば大丈夫だろ。早くこの人たちの仲間になりたい。んでZIGGYみたいに武道館でやれるくらいビッグになる!」
ドラムは所詮その手段だった。
…やはり田口だけはそこを感じ取っていたか、のちに酒の場で「初めて合わせた時、お前ヘタクソだったよ」と打ち明けられた。
私がメンバー候補になる前から決まっているライブが数本あり、私は全て客として観に行った。もちろんパスは出してもらっていた。
高田馬場エリアというライブ・ハウスでは「クローズ」など出演された俳優のもてぎ弘二さんと知り合い、その日、RussianRouletteの対バンで、のちに深い縁となる、あるヴィジュアル系バンドとも運命的な出会いを果たしていた。。
とにかく2004年は確実に私のロック・ライフにおける大きな節目となった年であった。。
続く)