〜高校3年間で、友人たちと切磋琢磨し、邦楽ではエックス・ジャパン、洋楽ではレッド・ツェッペリンと、名だたるハード・ロック・バンドのドラム・プレイをある程度極めた私。

更なるミュージシャンの夢を見て、アコースティック・ギターではあるが5度コードからリフレイン・フレーズを生み出し、循環コードを時折逸脱させながらメロディーをつけ、授業中に書き殴った陰鬱な青臭い詩を乗せて、プレイ・ステーションをシーケンサーがわりにし、10数曲仕上げ、卒業と共に「GYPSY」と命名されたロックバンドには、ありったけの私の理想と鬱憤が詰め込まれ、見事なオリジナル・カラーが彩られた。

大学進学し、メンバーが揃い、2度のホール・ライブを敢行後、、まさかのメンバー内異性関係でトラブルになってしまい解散してしまう。


「もっと人間的にも音楽的にも世界を広くしていこう!
大学で、サークルで、コピーバンドでも結構じゃ無いか、今しかできない!」


…それからサークルのメンバーとプライベートで付き合う時間が増えた。


まぁ、先輩が多かった。
私の年上キラーが開花したのだ。

もちろん音楽も影響されて、いろいろなロックを聞き出し、自分のオリジナルがいかに狭く、理論と若さだけで作った机上の、今ひとつフィクションを越えられないものであると言うことも痛感した。


もっと作る楽曲に幅と経験と、音で風景をつけられるようにリズムやグルーヴ…何より人間味を精錬・成熟させなければ、、


経験したリアルさや抒情的表現こそロックだろ!みたいな感覚が芽生えた。


例えばやはり、70年代80年代のハード・ロック。

それまでは知識的に吸収するように耳で聞いていたものも、体で感じるようにR&Bが根底にあるリフ中心のロックは決して退屈ではなく、本心から感覚でかっこいいと、心地良いと思えるようになった。
ガンズ&ローゼズなど高校の頃は、あまり魅力感じなかったが、やはりハマった。

もちろんメロディーが良い曲にも惹かれた。
デフレパードやヨーロッパ、ステイクス、ナイト・レンジャーなど、最高だ。

邦楽より、雰囲気で聴く洋楽に私は取り付かれていた。

相変わらず
世間や同世代じゃ何が流行っていたか全く分からず…

'90年代の文化すら薄れつつある中、私はキャンパス内を長髪・革ジャン・ブーツで練り歩いた。


ガソリンスタンドのアルバイトもどうやら例外ではなかった。
時代の流れもあり、改装しセルフサービスになると達しが来た。


つまりリストラ勧告されてしまった。

その頃はもうある程度バイトというものにも慣れ、あまり記憶はないがバンドのこともプライベートのことも

冷静に「まぁ、なるようにならぁ」と半分投げやりな自分がいた。


〜さて冬休みのサークル合宿の時期になった。


前回と同じくドラマー不足もあり、いろんな人からいろんなコピーバンドの誘いの声がかかった。
前回の林と綾子とのレトロ・ロックバンドはもうホールライブのトリで満足していたのか、継続はしなかった。

引退間近の他の先輩とBlack Sabbathなど古いロックからミクスチャーロックバンドでドラムをやることになった。


そしてさらに今後の私のロック生活において、かなりの重要なターニング・ポイントともなる「ある」コピー・バンドが結成された。


〜少し遡り、秋の学園祭で、私はちょっとしたネタバンドで、和製ドゥーワップの元祖・ラッツ&スターの曲を1年生の女の子たちをバック・コーラスにし、スーツに黒サングラスにオールバックで、バーっとおちゃらけた。

バンド演奏は一つ上の先輩達。

その流れで今回の合宿でも、また私はコミックバンドをやろうと先輩に誘われた。


その曲選びにおいて、私が提示したのはローリー寺西氏率いる、


「すかんち」だった。

すかんちは高校2年の時中古でベストを購入した。メロディーも良くサウンドはハードロックでかっこよく、ハマった。


先輩らメンバーとも嗜好はバッチリ合った。


1人は美術家専攻のドラマー・里美。

アート色の強い70年代ロックを好む。
彼女は後に渋谷屋根裏のスタッフにもなるほどのロックや芸術に対して人生をかけちゃうような熱い女性だった。

もう1人はニックネームが「姫」の、不思議っコ・菜穂。
声優やアニメの世界が好きで、特にベルサイユのバラなど、すかんちの世界観とよくマッチしており、クイーンを思わせるクラシックな音楽に彼女は得意のキーボードを披露する絶好の機会となった。

そしてさすがに私はローリー氏のようなテクニカルなギター・プレイはできないので、富谷というB'zなどを好むハードロックギタリストをリード・パートとして誘った。

もちろん乗り気になってくれた。


そしてベーシストに理恵と言う女性。

理恵はどうやらかねてから私に好意を寄せていたので、本家ベースのシマちゃんパートにピッタリである。

「好き好きダーリン」など演奏した。


この時期、音楽的にもプライベートも、いちばん楽しかった。

本当にもし機会があれば、すかんちコピーバンドは、継続していれば割と良いところまで行けたんじゃないかなと思う。

ちなみに正直、理恵は私のタイプではなかった。。

私はとりあえずパワー・コードを弾きながら、音楽スタジオとは違う少し劣悪な環境であるサークル棟で、地声を思いっきり出し、ギターを同時にがむしゃらにプレイした。

ローリー氏の楽曲は、私が目指すロックに近い。。


ハード、ポップ、グラム…絶妙なバランス!

ガツっと派手で、道化で、ホロッとするメロディや雰囲気。


詩も面白くアレンジも華やか。


冬合宿の発表会では、とにかくむちゃくちゃやった。
大きなインパクトだけで、決してうまくできたもんじゃなかった。


「君はもっとドラムのバンドやって欲しい」

と言う至極、当然の先輩からの意見もあった。

いや、ドラムだけの男にはなりたくない!と

ギター&ボーカルスタイルも、その後から退屈な反復練習でもどんどん続けた。

ギタリストではなくロックの表現者として…

ローリー氏に成り切ろうとした。


ほか、合宿では丸山という英文科の先輩と一緒にザ・ジャムなどモッズ系もやった。


とにかく今回のサークル合宿は、面倒な色恋沙汰も無く、とても充実した。


肩の力が抜け、いろんな先輩と音楽以外の話をするのも慣れてきた。


プライベートのバンド…GYPSYは完全に終わっていた。


そしてギタリストの渡辺とは、まだ連絡を取り合っていた。

高校からの1番の仲良しだったけど、専門学校に進学し忙しそうだったし、彼女もできたようで、なんかダラダラとしていた印象だった。


たまにハード・ロックやろうぜ、みたいな話をし、スキッド・ロウやボン・ジョヴィをスタジオで合わせた。

…音楽的思考は合うが、やはりボーカル探しが難航していた。

冗談で私がボーカルやろうか?と提案したが流された。


渡辺は私をドラマーとしか見ていなかった。

これでも私の髪は胸まで伸びており、普段からベルボトムジーンズや派手なコートやシャツを着て、ハード・ロック的な雰囲気は一応、渡辺よりはあったと思うが。

結局、渡辺とはあまり有意義な時間とは言えなかった。

木村と同じく、下手に私に近づき、本気でロック活動やる気がないとみなされた奴に対しては、私は平気で冷徹になれてしまった。

とくに渡辺とは、高校の時と合わせて、もう2度目だ…

なんて私は懲りないんだ。


過去に救われたはずの友人に対してなんて…身勝手すぎる。


更に高校生の時に作った曲はだいぶ理想とはかけ離れてしまっており、もう他人に聴かせるのは恥ずかしいとさえ思っていた。

しかし今聴くとむしろ王道で尾崎 豊風でエネルギーが詰まっているのだが…


私は結局、暗い過去を消し、大学サークル・デビューでパーティー・ピープルし続けたかっただけだった。。


冬が終わる頃、憧れの先輩が卒業し引退し、あっという間に二年生。

後輩ができる月日となった。


軽音楽サークル・音楽友の会2002年度。

結果を先に言えば、なんと新入生女子は1人だけ!

バンドブームがなんとなく去っていたような気がしていた当時は、日韓共同開催のサッカー・ワールドカップの時期であった。

当時の部長と副部長の先輩は根っからのサッカーファンで、部員勧誘なんてそっちのけで、ミーティング飲みの時など、せっかく来た体験入部員の相手も全くせず、テレビモニターでサッカーの応援をしていた。

…バンドやってモテたいと言う私のような男子だけが集まる無残な結果となってしまった。


私は歩の件もあり、サークルで女子と付き合うこととかどうこうにそこまで興味や魅力は感じなかった。

なんとなく会話したり、先輩に可愛がられたり、メールしたりするだけでその時は充分だった。


それよりもやはりちゃんとバンドを、ロックをやりたかった。

プレイヤーなどの雑誌でハード・ロック・ドラマーを募集してるバンドに加入を申し出て手合わせもした。

しかしジャンル的にも合うメンバーは、まだ歳上の社会人が多く、ビジョンやモチベーション的にもマッチングが微妙に難しい時代だった。

1度ボーカルでメタルバンドに加入を申し出て、合わせていただいたことがあるが…ダメだった。



高校の時、浦和ナルシスや大宮ハーツに出た時のイベンターにもそういうコミュニティがないかと訊ねたが…

「モトリーみたいなバンド?
いやー、今時いないね!」

と、ばっさり。


渡辺にも
「なぁ、俺がボーカルやって、リズム隊探す方がいいんじゃね?」


「…いや、お前はドラムだよ。」


「でも、まずはライブしなきゃじゃない?」


「……」

すかんちのコピーで自信をつけた私だが、渡辺は上記の提案を頑なに認めない。


そんな渡辺とはある出来事をきっかけに絶縁という形となった

その発端は…


そろそろセルフサービス化になる閉店寸前のバイト先であるガソリンスタンドで夜勤をしていた役者・新井が

「お前が今後ミュージシャンとして道を行きたいんだったらお勧めしたい場所がある」

と言うことで、岩手県は水沢江刺まで撮影馬の世話をしに行く手配がなされるという、何とも不思議な流れとなった。

とにかく有名無名だろうが、タレント・役者・スポーツ選手が集まり、「師匠」と呼ばれる初老が10数馬の馬小屋を運営している、3食寝床付きの無賃宿での奉仕作業兼精神修行。
…と言うようなシステムで、芸能界では知る人ぞ知る通過儀礼の場所だそうだ。

著名人では渡辺健さんなど、実際お会いできたが、やはりカッコよかった。


ほか大河ドラマで撮影する乗馬の練習に来る俳優、アイドル様々な写真を見た。


〜私は渡辺に良いアルバイトがあると言う口実で、半分騙した形で2人、連休を利用し水沢まで行くことに。

まぁ、精神修行だコネクションとか建前、半分は道連れだ。


…本当にすまないことをしてしまった。


しかしもう、いつまでもダラダラと渡辺と互いに刺激や向上心が無い付き合いをしたくもなかったのも事実。



そこではゴルフの選手や舞台女優、元パンク・バンド・マンなどがいた。良い人たちだった。

私は師匠のマニュアル車でよく繁華街まで買い出しに行かされた。

師匠や先輩の奢りで焼肉やキャバクラに連れて行ってもらえたが、バイト代なんて出なかった。


渡辺はいまだにこの件で私を恨んでいることだろう。。



渡辺は人当たりのいい、優しい面白い奴だった。

しかし20歳を過ぎて、本格的に夢を追う段階において、彼は少し甘かった。

ギターも専門に行ってりゃ良いわけではない。


師匠の前で弾いたアドリブ・ソロもいまいちだった。


〜さて、私はガソリンスタンドのバイトが終わり、駅近のコンビニで夜勤を始めた。


いわゆるブラック体制だった…

深夜というのに1人にされた。

休憩はほぼ無し。ほとんどずっと品出し陳列。
週に2回だったが、ガソリンスタンド以上に過酷で苦痛だった。

家庭教師もやったが、決してコスパは良くなかった。。

相変わらず大学の授業はギリギリライン。

バンドはサークル活動で充分充実した。


新入生のイケメンをGYPSYに誘ったが、廣田は「イン・フレイムスの曲合わせよう」と、暗に「もう君たちとはやりたく無い」とも取れるを提案し出したりしたので、話は流れた。


夏休みはコンビニも苦痛ながら、夏休みいっぱいで辞めると割り切り、割と稼いだ。

女やギャンブルに費やす欲もなかったので、服や靴など、原宿や上野でとにかくロックっぽい派手なものを調達したり、徐々に調子に乗り出した。


ウェスタン・ブーツなどギャル男が履き出す数年前から先取った。


そしてまた同じく、危険な匂いに引き寄せられるように火傷寸前のまま20歳を迎えるのであった。