時は2000年末〜

よく考えてみると、そもそも名のある大学を目指す必要と理由をあったのだろうか。

私は誰と戦っていた?

私は誰を見返したかった?どんな方法で?


とりあえず担任の教師に相談し考えを打ち明けると、B大への推薦入学について快く背中を押してくれた。

当時の担任は、政治経済の教師で生徒放任主義の愉快なおじさんだった。
1学期の進路相談の際は、ミュージシャンになりたいことを伝えると、「青山学院大なんていいんじゃない?アルフィーとか出てるし」などと私の夢の理解もありながら進学も勧めてくれる配慮もある方だった。

それから一足早く自分の進路が決まり、これからすべての時間作詞作曲に当てることにした。
「GYPSY」のメンバーの広田も受験勉強を始めた。これからGYPSYをやっていくのに、私の作曲能力をギタリストの廣田のそれに追いつかせなければならないと言うプレッシャーがあった。

私は指定校推薦入学に必要な願書とは別の志望動機を書くために書店で1冊の「いかにも」なハウツー小論文の書籍を取り、今で言うMicrosoftのコピー&ペーストのようなテクニックを駆使し、あたかも立派な文章に仕上げ、当時の国語教師にえらく褒められた。

そして面接試験のために夏の終わりに爆発したちんちくりん失敗パーマをまずストレートにしたら、襟足など鎖骨まで長くなっていたため、そこから思いっきり短髪にした。


更に岩渕氏サポートとしてMANY FACESのドラマーとしてその年の12月、一本のライブ出演を依頼された。

河原には大学合格確定を告げ、「B大なら近いじゃん」と卒業後のGYPSYとしてのバンド活動の幕開けが薄ら見え出し、都内ライブやツアーなどのためになるべく運転免許を取るべきだという事で、私は河原が通っていた自動車学校へ入学を勧められた。


両親は快く承諾した。

また、弁当屋のバイト再開もした。

大学への指定校推薦を選択をしたことが、残る半年の高校生活を目まぐるしく変え、私を多忙にさせた。


とは言え推薦を取った身。卒業まで赤点なぞ論外、内申点のキープや遅刻早退などで生活態度を怠惰にするわけにはいかず、退屈な教室での授業をこなしながら、自転車での移動手段はとにかく新しいロックを取り込むべくMDウォークマンから耳にひたすら流し込んだ。

洋楽で言えば、まず学校近くの国道沿いにある古本屋で80年代音楽雑誌のバックナンバーが結構な冊数、安値で置かれていた。

何より欲しい音楽情報源でもあった。
私にとって宝島を探し当てたような感覚だった。
状態も良く100円か50円で買えたミュージックライブやロックショウなどでは当時の洋楽アーティストが、ミーハー感覚でアイドル的な扱いをされており、デヴィッド・ボウイやジョン・ボンジョヴィ、デュラン・デュラン、ボーイ・ジョージ、リマール、ワム、そしてHanoi Rocksのマイケル・モンローまでもがグラビア表彰を飾っていた。
吉川晃司や尾崎豊などデビュー時の貴重な特集などもあった。
それらのページのアルバム・ジャケットの写真を切り取り、実際に音源をダビングしたMDケースに貼っつけたりしていた。

ハード・ロックも市民権があった。
何よりジャパメタ全盛期であり、広田から借りたアンセムなどはとてもかっこよかった。もちろんボン・ジョヴィやHanoi Rocksだけでなくラットやドッケン、モトリー・クルーからブライアン・アダムス、ビリー・アイドルなど当時流行っていたロック、私は実際にレンタルしたり中古屋巡りに足を運び、時間をかけ、ローコスト・ハイリターン体質になっていった。

YouTubeが無い時代、情報はそのように収集するしかなかった。



2001年、世紀がいよいよ変わる時であり、テレビなどでは昭和を振り返る特集番組などをやっていて、バブルの頃のドラクエ行列などのニュース映像や流行っていたメディアの変遷などを取り上げていた。

私が生まれる前後の社会現象…すべて刺激的だった。

目に入る写真、映像。耳に入る音から当時の風景を想像し、自分と言うフィルターを介して今の自分を思いを表現する。


それはメロディーと詩。
24年経ち、当時の1冊の大学ノートをたまに読み返す。

殴り書きした感情、聴いた音源の分析、イメージした髪型や衣装のイラスト…

「意外と悪くないなぁ」

と思うものもある。
機会があればYouTubeなどで公開したいと思ってる。

邦楽より洋楽を貪欲に聴いていた。

80年代の価値観を植え込んでいたとは言え、やはり自分が目指す音楽はルーツとしてビジュアル系やグラム・ロックなど着飾った見た目とクセと味が濃い音だった。

まさにボウイ、SIAM SHADE 、すかんち(ROLLY寺西さん)、LUNA SEA、PENICILLIN…やはりその辺が多かった。
コンプレックスなども知ったのもこの頃。
BTのベストも聞いた。
JAPANやクラッシュなどいわゆるニューウェイブやパンク〜レゲエ・スカと言うものを知った。
さまざまな世界観があると言うことを知り、ブルースからロックのルーツを極めたいという気概はあった。

一方でブリトニー・スピアーズのジャケットを見て、男子高校生として正常な下半身の反応を示し、曲もとても良くアタリだった。



とにかく充実していた時期だったと今になって思う。

時間を思う存分マイワールドの構築に注ぎ込めた。
卒業まで、どうせならとことん、といった心境だった。


11月の時点で進路が約束されても、学校での状況はあまり変わることは無く
私は隣のクラスの嫌われ者・Kとしか相変わらず居れなかった。

放課後など特段ベタベタせず、昼休みに「オス」と、なんとなく学食で隣に座り、奴は母ちゃん作の弁当で、私は食堂の蕎麦やうどん。残ったつゆをKはよくせびってきた。
そして、私の音楽雑誌や自動車教習所のテキストを読み回していた。


Kのクラスにはギターの渡辺がいた。

Kと、私が、昼休みに一緒に過ごしていることを渡辺は知っていた。


それにも関わらず渡辺は「タクちゃん、俺をGYPSYに入れてくれないか」と願い出た時は、さすがに私も驚いた。


てめぇらがクラスでハブってるKしか友達がいない私に?

そんな私がリーダーを務めるGYPSYに入りたい?

Kと仲良くしろとは言わないが…


少し懐疑的になっていた。

人当たりの良い渡辺だから奴は奴のクラスメイトとは上手くやっており、馴染んでいた様子ではあったが。


悪いけどそんな世渡り上手な渡辺に、GYPSYで描いた曲、叫びたい魂を表現出来るはずがない。


どうせ「誰もバンド組む人間がいないから、暇だから」と言えばいいものを。

急にメタルからビート・ロックバンドやりたいとは、やはり不自然だと思っていた。

それで、1度スタジオに入ったが、久しぶりに合わせた河原も微妙な反応だった。
広田はのほほんとしていたが、浜武など渡辺に対し印象が悪く、口も効かないし、目すら合わせなかった。

ギタリストとしてもやはりメタル色が出てしまっている渡辺をGYPSYに入れるのは違うなと思い、加入は諦めてもらった。


しかし渡辺とは以降険悪にならず、いろんな音源の貸し借りをした。ギタリストとして幅広く吸収したいと音楽学校を志望し始め、ウェスト・コースト系やLAガンズなど私が持っていない音源なども貸してくれた。
他、チャールズの川西は頭が良く、北里大学に後に合格する。
ショウは確かその頃、彼の兄が交通事故で亡くなった…
勉強にも音楽にもいまいち打ちこめていない様子だった。本来彼の明るいキャラクターが変わりなく、逆に痛々しかった。

大西も全然学校に来ない。

推薦を控えた私からは軽音の連中は、ほとんどフラフラしていたように見えていた。


教習所の勉強は退屈だった。

もともとそこまでクルマは好きではなく、
世の中の9割以上の人間が1歩間違えると命を奪い、また自ら落とす可能性のある「運転」という行為をする。
…と、思うと気が抜けられず、完璧主義の悪い癖も出てしまった。


作曲もそれに近いかもしれない。
ドラムも数ヶ月ぶりに叩いたが、あまり楽しめなかった記憶がある。


岩渕氏のサポート位でちょうどよかった。

12月。今は埼玉の西川口にあるハーツと言う、当時大宮にあったライブハウスにMANY FACESのサポートとしてライブ出演した。

岩渕氏はシーケンサーでデモを作り上げ、サウンドこそクリアで良質なものであった。
正直インパクトは無いが彼のギタリストとしての腕は確かにあったし、何よりバンドのリーダーとして頼れる存在なんだなぁと、そこは感心した。

ブッキングのライブであったが、リハーサルの後も堂々とフロア真ん中のパイプ椅子に座り、対バンを観察している。

どんなジャンルの対バンでもしっかりリハーサルを見て研究する姿勢に少し感動した。

その巨漢が頼もしく見えた。


熱く繊細…私と実は一番シンパシーが近い人物だったのかもしれない。


私もドラム自体うまくいったし良い収穫となったライブだった。


あらゆることがうまくいってると、1つ必ずどうしても超えられない穴が見えてしまう。すると、そこにばかり拘り留まり、飛ぼう飛ぼうとしてしまって、結局全体が進まない事は最近でも良くあることだ。

自動車教習所では実技技能で随分苦労した。
不器用な性格は知っていたが、仮免まで随分授業料を無駄にしてしまった。
両親の援助とは言え、マニュアル車の感覚を掴むのに通常プラス五コマ近くの時間を要してしまい、数万円がおじゃんになる事もだが、さすがにメンタルが絶望的だった。
ドラムで四肢を自在に操れる事など容易いはずなのに…


奇しくも私が今の娘と同じ6歳時(昭和63年)、翌年の天皇崩御からの年号・平成を発表した、当時官房長官の小渕恵三内閣の真っ只中で、就職氷河期にデフレ・スパイラルが旋風される直前だったか。


さて2025年、超高齢社会が迫る…


私は娘に何ができるのか。