2000年5月末、自ら立ち上げたロック・バンドのリーダーとなり理想のロックを表現することに成功した私は、その確かな手ごたえを糧に、更なる世界の広がりを追求する時間を得ようとしていた。

「洋邦、今昔のロックを耳に取り込むこと」
「英語の教師という人生の保険となる資格を得ること」

何より陰惨な日々となった高校3年の無念を晴らすために…

私の進路は大学進学に決まったのだった。

そのため
「GYPSY」(ジプシー)を休止させた私の胸中は清々しいものであった。

バンド・メンバーのベーシスト河原は、最後に対バンした「MANY FACES」(メニーフェイセズ)のサポートと自動車教習所に通い出すため、ライン工からデリバリーのアルバイトに移り、精を出し始めた。

彼と知り合った数年前、渡辺や山口というメンバーがいて、毎週末夜通し夢を語ったものだ。。

私たちが高校卒業したら、都内でアパート共同生活してそれぞれフリーター、バイトしてライブハウス出て、有名になるという夢を共に追いかけよう…
という蒼く淡い誓いを、河原は律儀にも忘れてはいなかった。

彼は偶然私のクラスの陽キャとそのバイト先のファミレスで知り合ったらしく、すぐに下の名前で呼ぶ仲になれたようだった。

普段教室で、そいつに明らかに見下されていた私はなんだか罰が悪かった。

それにMANY FACESの女性ボーカルとも既に連絡を取り合ってたか定かではないが、河原はなんだかライン工の時よりプライベートは充実していそうだった。

最初は私の進学に落胆した様子だったが、私に「裏切られた」といった遺恨や憤慨を見せる醜くさは微塵もなく、自らにあの頃の約束を頑固に強いる、そんな愚直で義に溢れた男、それが河原だった。
不器用だけどストレートな鋼のようなベース・サウンドと心意気に、私は惚れていた。


そんな私は弁当屋のアルバイトを辞めた。
高校時代、唯一うまくやれた仕事であり、続けるメリットも大きかったが、たいして欲しいアイテム等もなく、バンドも軽音部の夏の文化祭までと決めていたし、一応の体裁を繕おうとしていた。


しかし
その割に意気揚々と模試を受けたが…

見事1ラウンド左ジャブでKO

確かに志望校は5月の時点で無謀にもD.MARCH、神田外語大、麗澤など選び、
結果オールE判定だった。

英語も、ビックリするほど手も足も出なかった。

しかし、私は焦燥することなく、現実から逃げてしまった。

夏の文化祭を控えてもいたので、悔しんだり分析する暇もなく、軽音部生活最後のドラムを悔いなく叩こうと決め、「夏休みから本気でやろう」と、スッパリ頭を切り替えた。

本当ろくでもない…

まずは、増山たちとのヘヴィ・ロック・バンド。
当時新鋭のリンプ・ビズキットなどコピーし、横ノリ重サウンドは大いに刺激になった。

対し、VAN HALENなどクラシック・アメリカン・ハードロックを共に奏でた渡辺とは、春休みの体育館ステージ・オーディション以降絶縁状態であったが、長らく続けた「チャールズ」のメンバーであるショウや河西の仲介もあって、仲直りし、再結成した。

無論、開催式・閉会式の体育館ステージ出場権獲得のため、3度目のリベンジに燃える童貞四天王はその日、桃園の誓いの如し決起した。

勝負曲はシャムシェイドの「1999」!

我々の結成年だ。

そして、更に協力なリード・ボーカル・米村を迎えて絶対に負けられない試合に臨む。

他の相手は、、なんと私が昨年在籍していた「egg」。
ギターの大西はまたも倉持とB'zの「今宵月の見える丘に」という大名曲で大舞台を狙っていた。

大西はどれだけ女生徒の子宮を収縮させれば気が済むのか。

リズム隊は笹野と小原。

ガチだ。

ルックスや華では敵うわけないのに、選曲、演奏クウォリティも鉄壁だ。

しかしこちら米村のパワー・ボーカルは倉持すら圧倒させた!


結果は…僅差での敗北だった記憶。

私たちは、開催式の1発目、eggはその次。

そして閉会式は、やっと日の目を見た「サウスポー・ジャガー」君のスリー・ピースバンド。確かNIRVANAはやらず、くるりなど邦楽ギター・ロックを爽やかにやっていた。

もうひとつ、つまりトリは2年の後輩のパンク・バンド。
ちなみに私と河原がハードロックやビートロックを歌わせた男。もうブルハやハイスタなどイキイキとやっており、なんだか申し訳ない気持ちになったと同時に、心地よく世代交代し、引退できた。


さて、私たちのセットリストは、「1999」と

今では緑茶のコマーシャルに使われるハイ・トーンが印象的なBON JOVIの「Livin' on A prayer」と「禁じられた愛」。

もちろん米村は原キーで歌い上げた!

さすがに渡辺もメタル熱を呼び起こし、ハロウィンの「EAGLE FLY FREE」も合わせた。

コミック・バンドとして開き直り、ふざけた衣装と小物で館内に爆笑が巻き起こり、初夏の熱気と共に全校生徒を涌かせた!

…私たち軽音部員は皆それぞれ大満足のステージだった。

各々、演奏技術はもちろん、バンドを通してさまざまな人間関係で学び成長し、共に青春を過ごせた喜びを分かち合い、皆で夜通し語り合った。。


もうバイトもバンドも一旦手を止めた私にとって残る高校生活なんぞ、非効率で無味無臭な時間でしかなくなった。


予備校なんぞ行かずともブランド力ある我が校が執り行う夏期講習はさぞかし教員たちも受験モードとなりビシビシ指導してくれるのではないかと期待したが、、全然だった。

プリント配って、ほとんど自習時間だった気がする。

まぁ、公立校で空調も整っていたわけじゃないし、中学時のように受動的でいては進まないのは分かっていた。


何がわからなかったって、テメェのモチベ上げる方法だった。

上カースト・陽キャに虐げられた悔しさを学で晴らす?いや、彼らはもう、残り僅かな時間と狭い空間でいつまでも椅子取りゲームするしかなかった。
哀れ
卒業アルバム撮影で不自然にスプレーした毛髪と同じくその栄光の歴史は最後に黒く塗り潰された。

皮肉にも、私は「教師」、つまり塗り潰す側の立場を未来に志していた。


もしかしたら私が失ったと思っていた3年間は、実はあの最後の文化祭での軽音部員たちとの打ち上げで、全てが覆されてたのかもしれない。

絆は確かに強くなったが、それぞれ明確な夢を抱き、道を歩んだ。。

ベタベタつるむ必要なんてない。


同時にダラダラ過ごす必要もない。

しかしまだ予備校通いを頑なに拒んでいた私は配布された教材を1冊独学で頭にインストールするという暴挙に出た。

当たり前だが大学受験にそのようなセオリー通じない。。

結局、ダラダラ曲作りとフラフラ掘り出し曲探し巡りをしてしまった。


そして夏が終わる頃、近所の幼馴染・ユキトが専門学校をドロップ・アウトしたらしく、やたら連絡が来て、絡まれることが多くなった。

幼稚園からの悪友というやつで、人間性は面白いし、好きだった。

当時、携帯電話でチャットや出会い系サイトが出始めた頃。

ユキトはそんなもの、1人でやりゃあいいものを、ビビったのか私を巻き込み、神奈川まで女の子に会いに行くのに何故か付き添った。

あと、私が「ロック好きだから髪を伸ばしたい」と話したら「一緒に木村拓哉みたいな髪型にしよう」と、美容室に行きはじめてパーマをかけ見事に撃沈・絶望した。

あの美容師、「あぁ、レッド・ウォリアーズみたいな?」と分かってくれたと思いきや…


それにしても息抜きとはいえ、よく時間やお金があった。


…まぁ、結局ダラダラしてしまった。


夏休みが明け、相変わらず熱いままなのはロックへの思いだけ…


勉強も英語と政治経済をサラッとしただけ。


そんなおり、担任の教師から「指定校推薦」の募集一覧が掲示された。
さすが我が校、私がE判定食らった大学なども1学部に1人の枠がある。

しかし、私は内申点もそんなに良くはない。

近所で外国語が盛んなD大学も…
やっぱり、及ばなかった。


まぁ、仕方ないと溜息をつき、帰宅した。


そこで待っていたのは近所で転倒し、怪我を負った母が緊急入院したとの知らせだった。。