〜高校3年当時、偏差値並びに進学率の高さを誇る我が校であったが、公立高校であったためか、教員たちは想像した以上に熱は入れてなかったように思う。

校風も「自主、自立」としていたため、高学歴を目指すものにとっては、自ら能動的に動けなければ、いずれのカースト大逆転たる勝利はままならない状態であった。


しかし、時代的に池袋ウェストゲートパークなど、ワルいダルい感じが流行り、「志や意識高く、熱くなり必死になることはいまいちイケてない」とされていたのは事実。
少年誌ではあの海賊漫画が連載し出し、「仲間サイコー」などと謳い始めていた。
我が校でイキるようなマイルド・ヤンキーが量産された、という頃だ。

優秀で真面目な連中も「いかにも受験勉強してます」と言う雰囲気は出してはなかった。
それさえ押し殺すのは、おそらく私には到底無理難題だった。

いまよりマシではあるが、つくづく嫌な時代だった。

いわゆる陽キャラや極少数の上カーストの連中は、無邪気に青春を謳歌し、適当に要領よくテスト単位取って、真面目にアルバイトしたりする割には、ポーズとしてダルがってるだけで、チョッピリ何かに抵抗してる気がしてたのだろう。
そんなやつらは別段何の張り合いもなく過ごしていたように私には見えていた。

ただ、美人やギャルと話せて羨ましいな、くらいしか思わなかった。

まぁ、それは結構デカいのだが。。


全体の1割くらいの、そういった連中は大体卒業後、ほとんど就職していたように思える。
アパレル関係に進んだり、男は車関係だったか。

今ではベンチャー企業社長などになりFacebookで見かけるやつもいる。

言っては悪いが、その3年間で味わっていたぬるま湯での蜜の味は、彼らの未来の結果に見合ったものであるかどうかは甚だ疑わしい。

その当時のノリでうまくやれてる?

SNS投稿なぞ、9割がハリボテだ。

上辺だけの青春を過ごせた1割のウェーイだったお前ら、真面目な9割のインキャに敵うワケがないだろう?

私はその1割にも入らない第4種のチー牛だった。



しかとて、周辺と一切話題を絶っていたかというと、そうでもなかった。



なんとなく孤独ではなかった。グループ分けなどでは爽やかスポーツマンの輪の中に自然と溶け込めていた。

その中の1人とは、プレイ・ステーションのソフト「ときめきメモリアル2」などを借りる仲だった。


まぁ当時のリアル男子高校生の9割、こんなもんだろう。
しかし既にゲーム自体、幼稚なものと認識していたし、元祖の藤崎詩織を越えられるわけもなく、クリア後はかつてない賢者タイムに襲われたが、落としたコが生徒会長だけどギャルというギャップが好きだった。

ありがとう!



しかし昼飯の時はもう平気で1人で音楽雑誌を読んでいたり、たまに2年時に同じようにクラスから浮いていたやつと一緒に保健室に入り浸ったりした記憶もある。

まぁ保健の先生と話すのが目的だ。


私は、おそらく熟女好きなそいつの付き添いという立ち位置で、相変わらず女性に免疫も無く、恥ずかしくてあまり話せなかった。

それに今思い出すと増田恵子さん風の美人先生だった。

そいつは隣のクラスに居て、周りから嫌われていた。
軽音部の奴からも…
居た堪れなかった。

俺はそいつは嫌じゃなかった。
一緒にいると楽だった。

ただ周りから見たら同じようなものだったのだろう。
申し訳ないがそんな毎日を早く終わらせたかった。

しかしただ時間が経過するだけでは、曲がりなりにもこの青春、もったいなすぎる。

中学3年の頃は、高校受験勉強に全てを費やした。

そして高校3年、自分の人生の夢に音楽・ロック・バンドというものが芽生えだしたため、そちらに意識が向かった。



自分のバンド、自分のロック
自分の曲を生み出す
そう、作曲。

「ソングライティングを学び磨くことに時間を割こう」と決意した。

ドラムはこの2年間である程度表現できるようになった。

オリジナル曲をやるには、まず、それ以上に質の良い「楽曲」というキャンバスを用意しなければならない。

歌と、コードをつける。

そこで厄介なのが、音楽理論。


正直退屈なものである。

基本メロディーとトライアド・コードがあれば、後はキーが変わったりアレンジやエフェクトなどでいろんな音色をつけられ、大枠どうにでもなる。
そこで私は難しい理論などは避けて通り「デモは作って、あとは絵を描くのはバンドだから」と、ロー・コスト思考だった。

とにかく「とりあえずのキャンバスを用意できるようになる」ということは意外とあまり敷居が高いものではない事に気づいた。
 
まず、「ZIGGYやボウイのように必ずメロディーが良いもの」というものが先頭にあった。
同時にリズムやコードはシンプルなので、とにかくメロディーと気持ち良いコード進行を自分の引き出しから出そうとしてみるとなんとなく、できるかな?という自信もついていた。


詞は、結構悩んだ。まだまだ人生経験が浅かった。

しかし1ヵ月で1曲のペースで形にできた。

そんな1年間だった。


その時に使用したのはプレイステーションの音楽スクール「かなでーる」というソフトだった。
シーケンサーなど買えなかったから、プレステのソフト程度の値段は高校生にとっては手頃でありがたかった。
馬鹿にできない機能や音色がついていたし、のちの音楽アプリなどの先駆けとなることは必須であった。

鍵盤楽器はどうも苦手意識が高かったが、これだとゲームのコントローラーで操作するため、感覚としてはすぐに慣れた。
打ち込んだ音楽自体はまぁファミコンのようなサウンドになるのだが、時間をかけギターの音一つ一つをプログラミングし、和音を作り、慣れない反復記号などつけてプレイして時にカオスループになり顔面蒼白になったり、メモリーカードの要領が無くなり、泣く泣くトキメモのデータを消したのも良い思い出だ。

作成したデータはどう保存するかというと、

ダウンロードなんて言葉も無い時代。


「外部録音でMDにダビング」した。

さらにMDコンポは兄貴の部屋にしか無く、そこで流しながら、自分のマイク付きポータブルMDプレーヤーでボーカルも録音するという、ジョージ・マーティンもちょっとはびっくりするかもしれないような実験的発想も実行した。

音漏れ防止のため、毛布を被りながら兄貴の部屋でのボーカル録りにいく我が姿は、曲より何よりもカオスそのものだった。

物色する気はなかったが、彼の引き出しを開けたとき菅野美穂のヘア・ヌード写真集を発見した。

一度だけ共有・使用させてもらい、そっと戻した17歳の私がいた。。


ありがとう!!


聞く音楽は、基本的ZIGGYと、彼らが全盛期に執筆した書籍を読み込み、メンバーが影響受けたミュージシャン、デビッド・ボウイやハノイ・ロックス、T Rex、ニューヨーク・ドールズなど求め、CDレンタル屋に駆け込んで、いろいろ耳に取り込もうとしていた。



同時に邦楽のロックも見直しをしていた。
Janne Da Arcなど好む傾向で、やはりキーの高い男性ボーカルであり、メロディーがキュンと来るようなバンドが好きだった。
そして尚且つイケメンで、声にクセがあるとその味にハマっていった。

結果、吉川晃司と言うソロ・ロック・アーティストに憧れや夢が膨らみ、音楽と言うもの自体へも、'80年代シティ・ポップなど聴く楽しみ、喜びを知ることができた。

吉川晃司氏はシングル「ボーイズ・ライフ」や「アクセル」や「スピード」などは中学時代、かっこいいなぁと思っていた程度のシングル曲であったが、ある男から借りたベスト盤で


「俺はこの人を男として崇拝しなければいけない」


と言う使命感に駆られた。

そのCDを貸してくれた奴が他でもない、その年の5月、私がリーダーとして万全を期して臨み、立ち上げたバンド「GYPSY(ジプシー)」のギタリストであり、高一からのソウルメイト、広田であった。


前置きが長くなったが、GYPSYのその前身となるバンドで、私は彼のギターの腕と作曲センスに感服し、やる気のないベーシストを即刻解雇した。


同時に軽音部の親友と呼べた、渡辺との関係も悪化し、ヴァン・ヘイレンなどコピーしたハードロック・バンドやジギーやボウイなどコピーしたビートロック・バンドも「オリジナルもやりたい」という私自身のエゴでフェード・アウトさせていった。



…もうその時点で、その後私のとる行動とは、この物語を序盤から知るものであれば聴くまでも無かろう。


「GYPSYとしてのベース」を担える猛者といえば、そう河原しかいなかった。


パズルのピースが揃い、おそらく2ヶ月位で私たちは確かな手ごたえをつかんだ。

ボーカルは、1学年下の中学時代の私の部活の後輩・浜武という男で、ルックスがとても良かった。ソフィアの松岡充氏に近い。

もともとバンド好きなやつで、やつの兄貴からジギーのライブ・ビデオを借りたりした。
ギターもたしなんでいた。

そいつは広田と特に馬が合っていたようだった。当時、マリリン・マンソンなど過激でヘヴィなアメリカのロックバンドが登場しており、好んでいた。


前章で、増山と組んでいたバンドでもリンプ・ビズキットをコピーしていたが、私はあまり興味が湧かない類だった。


河原も相変わらずLUNA SEAを崇めており、GYPSYのリズム隊2人は頑固なキャラクターで息が合い、全体的にとても良いバランスの4人だった。

5月のライブは…きっかけは忘れてしまったが、その昨年夏に埼玉・浦和ナルシスで対バンした、「和製イングヴェイ」こと、岩渕氏により企画運営された市民ホールでの、まさかの彼らとGYPSYだけのツーマンだった。


…気がする。

岩渕氏はギター&ボーカルだったが、女性ボーカルを立て、オリジナルを演奏。本当にインギーと化した。


のちに、河原がそのバンドに半分引き抜かれるような形となり、その女性ボーカルと恋仲になるというのだから、私としては岩渕氏に対し申し訳ないが良い印象は無い。

彼の曲に自分が負けているとも思わなかった。


彼ら「MANY FACES」の前座となったGYPSYは私と廣田のオリジナルを5曲、そしてジギーの「TOKYO CITY NIGHT」「SHOUT IT OUT LOUD」「WHAT CAN I DO?」「NOT SO EASY」と、ジギーのファンの方にとっては割と曲調もマイナーな選曲をした。


それは私のオリジナル曲が「ど」メジャーであり、廣田のはどこかヴィジュアル系風であり、バランスを考えての理由だったのかもしれない。



結果は、高一での初教室ライブ、「radical」と同等の満足感だった。

盛り上がりに多少欠けてはいたがアンケートもとり、会場のほぼ全員が、賞賛してくれた。


本当に、適当な記入などはあまり見かけなかった。

録音したテープを聴いても、荒削りだけど高校生の初ライブにしては上出来だった。


しかし、私は結局…


大学を受験するため、立ち上げたばかりのGYPSYの活動休止をその場で発表したのだった。

その理由は3年前の中学時代と同じ。
一度疎かにした学業を取り戻し、ある「カタチ」にしたかった。


それは、英語の教師免許を取る事だった。

ジギーの森重氏が早稲田大哲学科を、B'zの稲葉浩志氏が横浜国立大で数学の教免を取ってたことなど勿論大きく影響した。

あとやはり大学進学は世界が広がる機会だし、親も喜んで応援してくれる選択肢だった。


それを振り払うほどのロックへの熱い思いは…無くはなかったように思うが、GYPSYと自分の英語の成績に自惚れた余裕と自信があり、あわよくば受験勉強と作曲というメリハリをつけ、要領よく両得する期間にしようと目論んだ。

ベースの河原は反対だった。

それは承知の上だったし、その間岩渕氏のバンドにまずはサポート・メンバーとして引き抜かれそうだという話を聞いてはいたが、「いや絶対GYPSYに戻ってくるっしょ」という自信があった。


結果河原もサポートで都内ライブを数回経験できた。

更にGYPSYのリズム隊と曲は進化できると踏んでいた。


…まぁそんな、全てがうまく行くわけはないのだが。