今年を締め括る漢字が発表された。

「税」…

なんだろう
愉快な気分も僅かにはあるが
G7さなか、このネタ世界に晒せる?

どこかの坊さんが、黒眼潰された「民」を憐み、ユーキャン怒it

煩悩の行き場はL.A?
満面どーじゃッス SHOW hey!


〜1999年、16歳当時の私のリビドーも、比類なき域に達するのであった。

ミューズ「鈴木あみ」との手掌どうしの細胞の触れ合いと感じる温もり、声帯から呼気とともに我が鼓膜を振るわせる聖なる言霊が私とギターの渡辺をより一層、ミュージシャンの夢へという桃源郷であり、蟻地獄でもある世界への揺るぎない憧れと渇望を確固たるものとさせたのであった。


…あぁ、非常に気持ちが悪い。


それから
渡辺は邦楽にも再び理解を示したのかJUDY & MARYのコピーバンドを部内で始めた。

元々、同学年のガールズバンドの子と渡辺は付き合っていたが、童貞のままアミーゴガチ勢となり破局し、そこのボーカルの子以外が気まずくなったのか、次々と辞めてしまった。
おそらくその責任と、ジュディマリのギター・TAKUYA氏は3年の先輩らからリスペクトされていたという理由もあろう。

このままメタル一辺倒で自分のギター・スタイルを確立しようとしていたら、彼は前章のジャガー君のように、ヴィジュアル系の曲でグランジ・サウンドを出すような…少し滑稽なギタリストになるところだっただろう。


たまたま、私はジュディマリコピーのメンバーに選ばれなかった。

渡辺も、私より巧いドラマー・笹野と組むことになり、笹野を当時の師匠と仰いでいた私にとっては、良い意味で焦り、火を付けられた機会となる。


一方、西田や増山、宮川とのヴィジュアル系バンドは「A•dict」(アディクト)」と命名された。

スペル、表記まで綿密にこだわりと世界観を散らばせていた。

そして、L'Arc〜en〜Cielの「forbidden lover」や「侵蝕」、LUNA SEAの「SLAVE」などコピーに選定される曲は割と毒々しいものであった。

まだ、いわゆるデス・ヴォイスがまだ確立されていない時代だったが、爽やかテニス部のイケメン西田は、その天賦の才能と新しい世界のドアを開き始めた。

余談だが、まさかディルアングレイが世界で活躍するとは、この時誰が想像できたであろう

ギターの増山も、もちろんSUGIZO氏、ラルクのKEN氏の癖とアクの強いプレイをしっかりと、楽しみながら弾いていた。
更にピエロというバンドでは、ギター・シンセというマニピュレーション機材を駆使しており、増山はそういうものにも研究熱心だった。

私はA•dictが絶対にカッコいいバンドになる事を確信し、最大限にカッコよくなるプレイをし、サウンドを出し、上級者や異性にもっと注目され、高校の教室カーストなど突き抜けて女神アミーゴがいる世界に辿り着く事だけを夢見ていた。

宮川は本当に、そんな3人に必死になってよくついてきてくれたと思う。


相変わらず手持ちの金は無かったが、たまにカラオケに行くなどして軽音部連中ともコミュニケーションをとり、ガス抜きはしていた。


そして遂に、学校外のライブ・ハウスで、我々A•dictのデヴュー・ライブが春先に決定されたのだ!


〜ここで、私のこの記憶の想起シリーズだがサブタイトル然り、毎度冒頭のイントロダクションに何かしら本文との関連性を交えて綴っている。

当時在任半ばで亡くなった小渕恵三内閣。500円玉がリニューアルされ、2000円札という世紀末感満載な経済対策が平気に行われていた。
あれから25年も経過し、まだこの国のリーダーになるような者は当然、野党からは当然不信任決議がなされ、民からは増税メガネと揶揄される始末。

まさにカネの切れ目は縁の切れ目と言いたいところだが、何故だか倒れぬこのsay too…
はびこる既得権益、しぶとい地元権力、しがらみ忖度、しきたり慣習…


いつになれば、oh令和 這い上がれるだろう?


新宿駅や喫茶店で、ロックやフォークを魂でやった世代!どこいった?

いつしかエンターテインメントに括られ、ティーンのイケてるバロメーター?

けつの青いのはバローおめぇだ!


〜私たちの通う高校の最寄り駅の反対口から徒歩5分位の場所に立地していた楽器屋兼練習スタジオ。
その一角が「Memphis」というライブ・ハウスだった。


いわゆる対バン方式で、他の軽音部員やその中学時代の同級生など、出演者はスムーズに募った。

ライブハウス側から提示された「チケット・ノルマ」は確か1,500円×数十枚

まずまずの相場だ。


…さて、これだ。


これが、アマチュア・ロック・バンド・マンの最初にて最大最難の関門なのである!


ノルマという言葉など、ネガティブな印象しかない。

セールスマンの如し、お客様は神様で

頭を下げて、代金をいただく。


そして当たり前のことだが

それに相応しいステージをする!


だが果たして
アルバイトとは異なる手法で、友人知人の懐にからその額、引き出せる価値が、本当に自分らにあるのか?!


たかが、されどの1,500円。


高校生にとって…


「ちょっと夜遊びに呼ばれて、クラスメイトがドヤ顔でモノ真似する巧くは無い爆音を聴き続ける30分近くの時間を過ごす」


これに値するにはまだ少し無謀なのでは
と、直感した私は更に、孤立したクラスの人間関係の中、メンバー4人で分けたたった数枚ですら売り上げ捌くことは逆立しても実現できない事実を悟っていた。


私は、河原や数少ない中学時代の知り合いを誘うも、平日という日時や当時アクセスがやや悪い場所など、細かなハードルにも躓いた。


そこで、「売れなければ、人が来なければ意味がない」と独断し、半額でクラスメイトに販売することに踏み切った。
私のノルマチケットは半分の価値で元軽音部の女子に購入された。



これがまずかった



増山や西田は、そのことを聞きつけ、私を叱咤し説教した。


彼らがバンドに熱意とこだわりと美学を詰めて、満を持したライブ前のこのタイミングに
非常にテンションを下げるような自分勝手で軽率な行動だった。


私は、2人にまず詫びた。

そして、1人でも私と繋がってくれてるだけでもありがたいバンド仲間である彼らから、ガッカリされてしまった!という焦りが脳内を占めた。

精神医学でいう「見捨てられ不安」
メンヘラ女子にしばし見られる症状だ。


しかし、私はどこか「…でも俺たちまだコピーじゃん」という冷静さもあり、さほど尾を引いて悩みはしなかった。


これが原因かどうか定かではないが、のちに増山は私と宮川をバンドから解雇した。

少し先の話だが、彼はradical、A•dictに続き、新たな形で西田と、今度はドラムに笹野を迎え始動し、更にライブハウスやレコーディングしたオリジナル曲を校内で披露するほどの本気さを見せつけてくれた。

A•dictが継続したとて、おそらく宮川はもうついていけなかったペースであっただろう。

真面目な宮川がズルズルとバンドという沼に飲み込まれず、カタギになるきっかけだったと思えば私のしたことは大した失敗ではなかった。


それは、今になったから言えることだ。


〜話は戻り、


学校内に西田が自らデザインしたA•dictの初ライブ告知チラシを貼り出し、私はクラスメイトにも多少胸を張ることができた。
同時に、こんど進級するクラス先では、友達はできるだろうかという不安も抱えながら学期末を終えたのだった。


高校2年となり、教室で見回したクラスメイトは偶然、中学時代から知ってるような顔ばかりだった。
中には小学校から一緒とか、同じ団地に住んでる奴まで。

まぁ他も良い奴らばかりだったし
ひとりぼっちにはならずにひとまず安心した。
しかし、そんな生ぬるい中、もちろん新しい人間関係なんぞ構築できるわけはなく、相変わらず軽音部活動がメインでちょっとアウトローな雰囲気が出てたからか、なんとなく高嶺の花だったような女子とも会話もできた。


あの1年間指を咥え、醜く僻み妬み、羨望の眼差しを向けていたクラスカースト上位の連中の心境というのはこんなものなのだろうか?


これが手に入れたかったモノか?

これで魂の何が熱くなるというのか?



孤独は消えたが、何とも言い難い虚無に不意に襲われる。


どこに行けば俺は辿り着けるだろう?


得意だった英語の成績も並程になり、理数系の内容は赤点ギリギリを平気でとるほどに。


その当時、増山からの解雇もあり、私はヴィジュアル系バンドからも少し距離を置いていた。

A•dictはMemphisでの初ライブを盛況させ、間も無く開かれた新一年生歓迎ライブにて、残る曲のレパートリーを消化させ幕を閉じた。


一方、河原たちとのバンドは依然と1ミリも進んではいない。


渡辺もジュディマリバンドで満足していた。

そして笹野も水面下で増山たちと動いていた中、
私は単発ではあるがショウという男とその歓迎ライブで、MR.BIGやVAN HALENをコピーし披露した。
初めてのハード・ロック、女子ウケは良く無かったけど、楽しかった。

ショウは一年の頃は笹野たちとエックスなどやっていて、当時の私たち「radical」と同学年ながら良き見本、理想であった。

その、ベースを担当した小原という男は巧いのと、ややチャラいところ以外は宮川と同じタイプで、見事増山の新プロジェクトにも引き抜かれた。

ショウやもう1人のギターである大西にとっては、格下であるradicalの増山から笹野と小原を取られるのは正直面白くはなかったのだろう。

私はショウと、ギター渡辺とシャムシェイドや聖飢魔IIを、
更に大西と、ベース渡辺を改めて鍛えようとB'zやSEX machine-gunsをコピーしよう!と盛り上がった。

これらは特別学外でやろうとか話は無かったが、私個人としては更なるドラム技術の向上がのぞめるまたと無い機会だった。


そんな中私はショウから借りたCDのなかで
割と有名な、あるひと昔のロック・バンドを貪るように聴くようになっていた。


その名は
ZIGGY(ジギー)
といった。


私は大西に、ジギーの
「マケイヌ」という曲のコピーをしたいと申し出たくらいだ。

大西は快く承諾し、バッチリ仕上げてきた。

また、私の胸はときめくのであった。