自分は何者なのか


この世に生を授かり

何を為すべきか



ティーネイジャーならば誇大的に思い巡らせるものだ。



私も例外なく…


〜1998年夏


私はバンドのドラマーというポジションを、当初は「他人に必要とされるため」であったものから、いつしか「快楽や自分の本当の居場所」という高さにまで昇華させていた。

学期末に行われた軽音部での新入生お披露目ライブ以降、渡辺や増山、西田とのバンド「radical」(ラディカル…当時はラ行をつけるのはビジュアル系コピーバンドとしては有りがちだった)
は高いテンションのまま継続され、秋の文化祭に向けてメンバーのやる気は漲っていた。

もう1人の、これまた渡辺という、元はギター希望のベーシストだが、なんとお披露目ライブ本番にhideのような迷彩服の衣装を着て臨んできたのだ。


もちろんオーディエンスをおおいに惹きつけた。

オマエほとんど音合わせに来なかったクセに…と言いたいが、そういうノリは私的に嫌いじゃなかった。
当然ろくに弾けていなかったから、その悔しさをバネに文化祭では頑張ってほしいと思った。


…そうだ

hide氏が亡くなったのは、ちょうどその頃だ。

ゴールデンウィークだったか、渡辺と増山と一緒に楽器屋にいて、そこの店員から聞いた。


特段エックスジャパンには思い入れは無いが…昨年末に紅白で「Forever love」の序盤、ギターを演奏する事なく全国ネットで暇そうに佇む姿で映っていたhide氏だが、ド派手でサマになっており、ロックだなぁという印象だった。

YOSHIKI氏はブラウン管からもバッキバキなオーラを感じたし、とし氏はやはりメンタルを病ませていたようだった。

年明けての解散発表を沸々と感じさせる様子は素人ながら見てとれた。

そしてこの、hideこと松本秀人氏の悲報はとにかくスケールが大きく

ロザンナと?レベルの認知である私の親世代にも割とショッキングな程、世間では話題となった。

のちにこの不可解な死は、しばしカート・コバーンや尾崎豊と比較されたり、幾多のエピソードは伝説と化し、また1人永遠のカリスマ・ロックアーティストとして特にティーネイジャーにフォロワーを数多く生んだ。


ベースの渡辺が迷彩服でライブに臨んだのは、追悼の意を彼なりに、そして渡辺の生来の愛されるキャラクターもあり、ステージが盛り上がる要素となった。
それで私は見直したし、ギターの渡辺や増山が普段から彼を温かい目で見ていることに納得した。

後にhide氏のようにヘヴィ・ロックバンドをやりたいと、私や増山と組み、晴れてボーカルをやるようになるのだが…それはまた少し先になる。


たかが部活のコピーバンドでサムいことしてる、と言われようが、盛り上がったもん勝ち。

同じく、ロックやるなら髪は伸ばすか派手な色にカラーするもの、男でも化粧するもの、ボーカルは容姿が綺麗な人物が担うもの…等

当時の私は純粋が故に、これら方程式に従順だった。


偶然冒頭の話に少し触れるが

己が何者になるか
何を為すべきか

中2病拗らす前に、熱い気持ちが能動的なアクションに勝手に導くものなのだ。

そんなこと考えてる暇なんて無かったことに気づくのだ。


それは私に関して言えば
お披露目ライブ後日の、ギターの渡辺の誘いの言葉から始まった。


「拓也君、こないだ連れてきたベース(河原)とさ、一緒に校外でやらない?ボーカルもいるよ。
…俺たち、プロ目指してるんだけどさ」


ドラムでプロになる、その概念はその時ハッキリ無かった。

だから、余計にグッとくる誘いだった。

渡辺は、部活のメンバー以上に私のドラムを必要としてくれた事と共に、何かを極めていこうという挑戦を私に投げかけた。


ライブ…あの興奮

もちろんやりたい!

渡辺と河原、経験者と組んでもっと成長できる…こんな近道は無い

やるには最高の条件じゃん!


「俺も…やりたいよ。プロ、なりたいよ!」


そう、一瞬にして反射的に答えていた。。


7月末の暑い土曜の夕刻、河原の家に集まる決起会と称し、怪訝な顔で反対する母を説得し、泊まりがけで自宅を飛び出し、最寄りの駅で渡辺と待ち合わせた。

LUNA SEAの「I for you」響くコンビニでカルビ焼肉弁当と酒を買った…正確に言えば「買えた」。

時代もあったが私はこの頃既に身長が180越えており、酒も中2から祖父と父に少しだが鍛えられていた。

河原は前章でも述べたが中卒労働者であり、実家では肩身が狭かったのか、私達は彼のミッション型の原付が停まっている戸建裏の勝手口からコソコソとお邪魔した。

2階の彼の部屋は、控えめに言って粗雑で、数枚貼られたLUNA SEAのポスター、同い年にしてはデカく高質なCDコンポ、SGのギター、コーヒーの空き缶と煙がゆらめく灰皿に積まれたタバコがなんともロックな光景であった。


「よう、きたか」


河原はベースを弾きながら、もう1人がそれに合わせ、歌を歌っていたところだった。

そいつの名は山口という、渡辺と河原の中学時代のバンドメンバーだった。

渡辺より経験が長い、リードを担当していたギタリストだったようだが、この春からボーカルに転向し、彼の通う高校でも私達と同じくLUNA SEAのコピーバンドを組んだそうだ。

こちらの軽音部の、西田と比べてしまうと正直見劣りしてしまう顔立ちだったが、山口も明るく、ボーカルらしいキャラをしていた。
華奢な体型で河村隆一タイプだった。


それから、夜通し語り合った。
それぞれの夢を、というと美しいのだが…

モーニング娘。で誰が可愛いくて、
いつかミュージック・ステーション一緒に出て、どう楽屋に忍び込み、誰の連絡先を聞くかという馬鹿話を本気でしていた。


楽しかった。


私としては、普段の平日、孤独で退屈な高校生活に比べたらまさに夢のひとときで、来週、また来週、と河原宅に通った。


母は、いい顔しなかった。
いろいろな言い訳をつけて、半ば強引に出かけた。


スタジオでのリハーサルから河原の家に流れるのだが、最初はみんなでLUNA SEAのライブビデオなど観たりしていたのだが、さすがにネタも尽きてきて、河原はプレイステーションをし、山口はアルバイトに、渡辺と私はマガジンを読み…という怠惰な時間となってしまった。


小遣いも尽きかけたのか、私はアルバイトを始めた。

とにかく余った時間を有効に使おうと。
周りのバンド友達のように、自分の手で何か機材を手に入れるために。



そして社会の現実を見ることになった。


「オープニングスタッフ募集 ホール 高校生可」

新聞折り込みの求人チラシで見つけた、市内の県道沿いに新しく開店予定のファミリー・レストランだった。

中学時代の友人である梅沢という男とNTTドコモショップに行き、ポケットベルを契約した時期で、そいつと一緒に応募し、面接に臨み無事2人とも採用された。

確か8月のオープンで、それまで市役所や、隣市の店舗でスーツを着用した社員に見守られる中、接客の研修やメニューを暗記したりした。


私はウェイターとして放課後、学生服の下ズボンのまま、店のワイシャツと蝶ネクタイを締め、髪をサッパリさせ、年上のお姉様方ともそれなりに上手くコミュニケーションしながら取り組めていた。店長や社員には怒られていた方だったけど過度に凹んだり病むことはなかった。


梅沢は、更に前章にもあった、私の中学時代の同級生で組んだバンドメンバーでもあり、ベースを担当していた。

お世辞ではなくL'Arc〜en〜Cielのhyde氏風のハーフ系の顔をしており、聴く音楽の趣味も一緒で、バイトで稼いだお金で「ペニシリンの赤坂ブリッツのライブ観に行こう」と約束を交わしていた仲だ。

しかし肝心の性格というか、根性と性根が湾曲していた。

研修後すぐに辞めたのだ。

彼はキッチンの方で、周りとあまり馴染めなかったようだ。


学校とバイトを掛け持つということは、それぞれの場所で正反対の仮面を装わなければならないものかもしれない。


少なくとも私は、進学校で、勉強がダルいと、ちょっとワルっぽく振舞って、バイト先だけでは真面目にマニュアル読むような、ダサい切り替えスイッチは持ち合わせてなかった。

期末テストでは引き続き英語トップクラスに君臨する点数を叩き出した。

バイトでの仕事の要領は決して良くは無い方だったが、報酬という目的を共有したコミュニティでは周りと上手く馴染めていた。

いわゆるイジられてたという形ではあるが。

綺麗なウェイトレスJKが食べかけの賄い食を私に「よかったら食べる?お腹いっぱいだからあげるよ」
と、差し出したことがあり、ドキドキしながら彼女の使用済みのフォークで食べた、というかけがえのない思い出もあった。


しかしやはり、たった数時間とはいえ、夏休みの夕刻、繁盛期の飲食店からは常時高度なマルチタスクを求められ、精神は擦り減った。


ホールの担当だったが、ドリンク、スープ、サラダにデザートの盛り付けから補充、提供はもちろん、グリルやピッツァの木皿の拭き取り消毒なども担った。その尋常でない苦痛の代償である750円という時間給は、私の過度な自意識的価値とは大きくかけ離れていた。


割に合わなすぎる!


更に、ドラムと自転車通学通勤にかかる腰への負担は高校生の肉体にも容赦はしなかった。

帰宅部とはいえ、夜まで心身酷使し、ドラムの練習ができなくなることは本末転倒。


一応進学校なので学業への影響という大義名分を掲げ、梅沢より少し後の、9月始めにはもう辞めてしまった。


母も、安心した様子だった。

私が一学期にロックバンドという生き甲斐や夢を持ったこと、一瞬でも彼女ができたことなどで、今後もアルバイトしようもんなら我が子がパンクするかも…という懸念もあったのだろう。

そして当時、父は地方に単身赴任しており、兄は都内の大学に通い、サークルやバイトに明け暮れていた。その為私は、私がいない時は殆ど1人だった母のことを、少し不憫に思っていた。
週末は誰も家にいない訳だから。

しかし今も近所の友人と出かけたり社交的な方だから、不要な心配だったかもしれないが。


自分のやりたいバンドのためにバイトを始め、バンドのために辞めたこの夏を振り返ってみて…

言い訳ばかりで根性が座っていないと呆れる。


そもそも梅沢と応募した時点でビビってしまっている。

ひと夏の甘い経験など…大人の階段は、もちろん登れるはずもなかった。


こんな肝タマがすくんでいては。

マニュアルを頭に入れていれば大丈夫だろうと飲食店接客に挑み、見事にイレギュラーに対応できず、正直偏差値の高くない地元高校生の方が、よっぽど要領よく上手くやれていた。


もう少し、社会勉強すれば良かったかもしれない。

少々不完全燃焼だった夏を終えたのだった。